南の海を愛する姉妹の四重奏
彼は──王太子である。
現在の拳の王の、二番目の男子。
一番目の男子は、この世にはいない。
噂通りであれば、彼の母が他の女性から生まれたその子を、この世から消したということになる。
それが事実かどうかは、どうでもよかった。
個人の名はあるが、いずれ消える。
父が死ねば、彼はマイア・ロシスト・エージェルブ(大いなる拳の王)と呼ばれるようになるのだから。
だから、名前など何の意味もない。
彼が物心ついた時にはもう、自分が王太子になるべき立場だったため、ぼんやりとそんなことを思っていた。
それでも、まだ今よりは子どもらしい子だった。
「──様! 悪いことをしてはなりません!」
幼少を後宮で過ごしていた彼を、名で呼ぶ数少ない侍女がいた。
若いがころころと太っていて、美しくはないが明るい女性である。
母は、嗜みと企みに忙しい女性だったため、躾と愛情を彼女に受けたといっても過言ではない。
嗜みにも企みにも興味のない彼女は、後宮の中で許される限り、彼をまっすぐに育てようとしてくれた。
彼女の結婚の噂が立った時、子どもながらに焦ったほどだ。
『大丈夫ですよ、私は、貴方様が立派に成長なさるまで、お側におりますから』
その言葉を信じた。
彼女だけは、疑う余地のない相手だと思っていた。
ある夕刻。
部屋に来るはずの彼女が来ず、彼は心配になって探しに出た。
後宮内にある図書室辺りにいるのではないかと思い、そこへ近づいた時。
『おやめ……下さい……』
苦しげな、彼女の声を聞いた。
ひどい目にあっているのではないかと、驚いて彼は図書室へと飛び込んだのだ。
抑えつけられた手。
乱れたドレス。
そんな彼女にのしかかっていたのは。
『後学のために見て行くか?』
冷たい目で自分を見ながらそう言った──父だった。
ここは、後宮。
王のための場所だ。
後宮に出入り出来る男は、王と王の子のみ。
そして。
後宮の女性は、全て王が好きに出来るのだ。
残酷な力による屈服の光景を、彼は茫然としながら見ていた。
自分に明るく優しく語りかけていたその口が、悲鳴をあげながらも決して自分に助けを乞わない様子を見ていた。
その日から。
王太子の中にある何かが、大きくねじれたのだ。
いまにして思えば。
彼は、その侍女のことが好きだった。
都に降る初雪のように、淡い淡い初めての思い。
周囲の誰とも似つかない、爛漫さを愛していたのだ。
だが、それが壊される瞬間を見た。
力で、屈させられる瞬間を見た。
彼女は──王太子の侍女を辞めた。
後宮から、下りたわけではない。
ただ、働く場所が変わっただけ。
王太子は、その女を二度と見たいとは思えなかった。
見る度に、心の中のねじれが大きくなっていくからだ。
しかし、彼女は特徴的だった。
ころころと太った身体のせいだけではなく、彼女は後宮に余りいない──赤毛だったのである。
だから、視界の端にほんの少しでもあの色が閃く度に、彼の心はねじくれていった。
後宮を出る10歳になった時、彼はせいせいしたのだ。
もう二度と、彼女を見ることはないだろうと。
何故ならば、彼女は『王の後宮』の侍女だったのだから。
これから、王太子のために作られる『王太子の後宮』とは、まったく違う場所。
なのに。
15歳になって、初めて作られた彼の後宮に──彼女はいた。
『南長』などという肩書を背負って。
王太子のねじれた心は、その瞬間、更にねじきれんばかりにひねり上げられたのだ。
まるで、父の声が聞こえた気がした。
『好きだったんだろう? おさがりで良ければくれてやる』
彼は誰も寄せ付けない己の部屋で、臓腑を抉られるかのように吠え、のたうった。
父に対する憎悪が炎の柱のごとく吹き上がり、彼は己の室内で何もかもを破壊したのだ。
それから。
彼は、いまの王太子と同じ物となったのだ。
治世になど、何の興味もなくなった。
こんな世界など、荒れて乱れて殺し合えばいい。
反乱を増長させ、そうなるべく敵を積み重ねて行く。
女に対する考えは、乱れただれて、力でねじ伏せられる者は全てねじ伏せた。
侍女だろうが掃除女だろうが、目についた女は片端から弄んで捨てる。
ただし、その中に赤毛はいなかった。
南長以外の赤毛は、彼の後宮にはいなかったのだ。
だが、彼女にだけは決して触れもしない。
憎んでいる男のおさがりになど、絶対に手を出さない。
それが、彼の歪んだ自尊心だった。
そんな男が。
皮肉にも、赤毛の女と出会ってしまった。
※
まだ幼さが残り、古い型のドレスを着ている彼女は── 一瞬、この世のものには見えなかった。
少なくとも、そこだけ古い時代であるかのように思えたのだ。
夕日に燃え上がる髪はなお赤く、慎ましやかな形のドレスも染め上げていた。
「夕日の精か?」
王太子は、ロマンティストではない。
もはや彼は、自分は何の夢も見る気もないと思っていた。
蔑むべき感情だとさえも。
そんな男が、その古めかしい光景を、ほんの一瞬だけとは言え、夢幻(ゆめまぼろし)のように思ったのだ。
だが。
彼女は、夢幻ではなかった。
人間だったのだ。
しかも。
「これは、お祖母さまが遺してくれた、大事な大事なドレスよ! このドレスが時代遅れというのなら、私は時代になんか乗らなくてもいいわ!」
王太子である彼に、噛みついてくる女だった。
彼は、思ったのだ。
この誰の手垢にもまみれていない赤毛の女を、抱いて滅茶苦茶にすれば、自分のねじれた心の根元にある、あの暗い記憶を踏みつけられるようになるのではないかと。
赤毛の女など、この程度のものだったのだ、と。
それは、容易なことだと思っていた。
だが、彼に『今』残されているものと言えば。
その赤毛の女が脱ぎ捨てていった一揃いの靴と、フラの公爵の忌々しい指輪の石と──右手の噛み痕だけだった。
現在の拳の王の、二番目の男子。
一番目の男子は、この世にはいない。
噂通りであれば、彼の母が他の女性から生まれたその子を、この世から消したということになる。
それが事実かどうかは、どうでもよかった。
個人の名はあるが、いずれ消える。
父が死ねば、彼はマイア・ロシスト・エージェルブ(大いなる拳の王)と呼ばれるようになるのだから。
だから、名前など何の意味もない。
彼が物心ついた時にはもう、自分が王太子になるべき立場だったため、ぼんやりとそんなことを思っていた。
それでも、まだ今よりは子どもらしい子だった。
「──様! 悪いことをしてはなりません!」
幼少を後宮で過ごしていた彼を、名で呼ぶ数少ない侍女がいた。
若いがころころと太っていて、美しくはないが明るい女性である。
母は、嗜みと企みに忙しい女性だったため、躾と愛情を彼女に受けたといっても過言ではない。
嗜みにも企みにも興味のない彼女は、後宮の中で許される限り、彼をまっすぐに育てようとしてくれた。
彼女の結婚の噂が立った時、子どもながらに焦ったほどだ。
『大丈夫ですよ、私は、貴方様が立派に成長なさるまで、お側におりますから』
その言葉を信じた。
彼女だけは、疑う余地のない相手だと思っていた。
ある夕刻。
部屋に来るはずの彼女が来ず、彼は心配になって探しに出た。
後宮内にある図書室辺りにいるのではないかと思い、そこへ近づいた時。
『おやめ……下さい……』
苦しげな、彼女の声を聞いた。
ひどい目にあっているのではないかと、驚いて彼は図書室へと飛び込んだのだ。
抑えつけられた手。
乱れたドレス。
そんな彼女にのしかかっていたのは。
『後学のために見て行くか?』
冷たい目で自分を見ながらそう言った──父だった。
ここは、後宮。
王のための場所だ。
後宮に出入り出来る男は、王と王の子のみ。
そして。
後宮の女性は、全て王が好きに出来るのだ。
残酷な力による屈服の光景を、彼は茫然としながら見ていた。
自分に明るく優しく語りかけていたその口が、悲鳴をあげながらも決して自分に助けを乞わない様子を見ていた。
その日から。
王太子の中にある何かが、大きくねじれたのだ。
いまにして思えば。
彼は、その侍女のことが好きだった。
都に降る初雪のように、淡い淡い初めての思い。
周囲の誰とも似つかない、爛漫さを愛していたのだ。
だが、それが壊される瞬間を見た。
力で、屈させられる瞬間を見た。
彼女は──王太子の侍女を辞めた。
後宮から、下りたわけではない。
ただ、働く場所が変わっただけ。
王太子は、その女を二度と見たいとは思えなかった。
見る度に、心の中のねじれが大きくなっていくからだ。
しかし、彼女は特徴的だった。
ころころと太った身体のせいだけではなく、彼女は後宮に余りいない──赤毛だったのである。
だから、視界の端にほんの少しでもあの色が閃く度に、彼の心はねじくれていった。
後宮を出る10歳になった時、彼はせいせいしたのだ。
もう二度と、彼女を見ることはないだろうと。
何故ならば、彼女は『王の後宮』の侍女だったのだから。
これから、王太子のために作られる『王太子の後宮』とは、まったく違う場所。
なのに。
15歳になって、初めて作られた彼の後宮に──彼女はいた。
『南長』などという肩書を背負って。
王太子のねじれた心は、その瞬間、更にねじきれんばかりにひねり上げられたのだ。
まるで、父の声が聞こえた気がした。
『好きだったんだろう? おさがりで良ければくれてやる』
彼は誰も寄せ付けない己の部屋で、臓腑を抉られるかのように吠え、のたうった。
父に対する憎悪が炎の柱のごとく吹き上がり、彼は己の室内で何もかもを破壊したのだ。
それから。
彼は、いまの王太子と同じ物となったのだ。
治世になど、何の興味もなくなった。
こんな世界など、荒れて乱れて殺し合えばいい。
反乱を増長させ、そうなるべく敵を積み重ねて行く。
女に対する考えは、乱れただれて、力でねじ伏せられる者は全てねじ伏せた。
侍女だろうが掃除女だろうが、目についた女は片端から弄んで捨てる。
ただし、その中に赤毛はいなかった。
南長以外の赤毛は、彼の後宮にはいなかったのだ。
だが、彼女にだけは決して触れもしない。
憎んでいる男のおさがりになど、絶対に手を出さない。
それが、彼の歪んだ自尊心だった。
そんな男が。
皮肉にも、赤毛の女と出会ってしまった。
※
まだ幼さが残り、古い型のドレスを着ている彼女は── 一瞬、この世のものには見えなかった。
少なくとも、そこだけ古い時代であるかのように思えたのだ。
夕日に燃え上がる髪はなお赤く、慎ましやかな形のドレスも染め上げていた。
「夕日の精か?」
王太子は、ロマンティストではない。
もはや彼は、自分は何の夢も見る気もないと思っていた。
蔑むべき感情だとさえも。
そんな男が、その古めかしい光景を、ほんの一瞬だけとは言え、夢幻(ゆめまぼろし)のように思ったのだ。
だが。
彼女は、夢幻ではなかった。
人間だったのだ。
しかも。
「これは、お祖母さまが遺してくれた、大事な大事なドレスよ! このドレスが時代遅れというのなら、私は時代になんか乗らなくてもいいわ!」
王太子である彼に、噛みついてくる女だった。
彼は、思ったのだ。
この誰の手垢にもまみれていない赤毛の女を、抱いて滅茶苦茶にすれば、自分のねじれた心の根元にある、あの暗い記憶を踏みつけられるようになるのではないかと。
赤毛の女など、この程度のものだったのだ、と。
それは、容易なことだと思っていた。
だが、彼に『今』残されているものと言えば。
その赤毛の女が脱ぎ捨てていった一揃いの靴と、フラの公爵の忌々しい指輪の石と──右手の噛み痕だけだった。