南の海を愛する姉妹の四重奏
「お嬢様、ワシはぼんくらが上にいると、部下の死ぬ数が増えるので、我慢ならんのですわ」
アーネル将軍は、率直かつ庶民的な言葉で、ウィニーに本心を伝えてくる。
剛の将軍ではあるが、市民の出のためか、言葉がとても分かりやすい。
軍舎の一室。
姉からの書状を、彼に届けに来た時のことである。
その書状を、端から端まで眺め回した後、このロアアールで一番若い将軍は、ツルツルの頭を光らせながら大きく唸り、先ほどの発言をしたのである。
「アーネル将軍の気持ちは、痛いほど理解しています」
ウィニーは、自分も同意見であることを真面目な顔で伝えた。
姉の書状の中には、王太子の近衛軍と共に、ウィニーが入ることが書かれていたはずだ。
彼が、王太子だけではなく、自分まで含めて『ぼんくら』と言っているとしても、それは事実だった。
「お嬢様……ワシは二十年前の、国軍のことを知っております。ありゃーもう、本当に人数合わせが精一杯の、しょうもない軍でした」
彼の言葉は、ウィニーも理解しているつもりだ。
それは、知識の上だけに過ぎないが、補佐官より二十年前の資料の説明を受けていた。
おかげで、ロアアールの軍隊の国軍への信頼度は、限りなく低くなっている。
「今回……足手まといになるのは百も承知で、将軍にこの件をお願いしたいのです」
ロアアールの数少ない矛である彼の軍隊に、王太子と近衛軍、そしてウィニーという異分子が入るのは、彼らにとって邪魔以外の何者でもないことくらいよく分かっていた。
「王太子殿下は、極力私が何とかします」
だから、彼女はこう言うしか出来ないのだ。
ロアアールのために、この小さな身体を張る、と。
アーネル将軍は、ひょいとウィニーの黒い瞳を覗き込む。
いっそ、不躾だと思うほど簡単に公爵令嬢の目を見る男だ。
「そこまでおっしゃるのであれば、ワシもがんばりはしますがね……時にお嬢様、寒さには耐えられますか?」
将軍の目が、きらっと光を反射したような気がした。
※
ウィニーは、王太子のすぐ横で馬を歩かせながら、己の身が震えそうになるのを耐えなければならなかった。
攻撃軍は、ふた手にわけられた。
一つは、敵の防衛線の薄い部分を正面から突く大部隊。
フラの軍──すなわちスタファは、こちら側に配置されることとなった。
もう一つは、険しい山を経由して、敵の側面に出る奇襲部隊。
王太子と近衛軍は、こちら側に配置されたのだ。
『どちらも同じ前線ですから、文句もありますまい』
アーネル将軍はそう言ったが、ウィニーは多くの心配を抱えていた。
ロアアールに春がきたと言っても、それは平地の部分だけだ。
山の高度によっては、雪がまだ残っている。
実際、いま馬が踏みしめている道の端には、溶け切れていない雪が凍った塊のような形で残っている。
雪が残っているということは。
「うう……」
後列の誰かの、震える声が漏れ聞こえる。
ウィニーは、確信していた。
その誰かは、近衛軍の中にいる、と。
冬でも訓練にいそしむロアアールの軍人が、この程度の寒さで音を上げるはずがない。
だからこそ、どんなに寒くてつらくても、ウィニーは絶対に声をあげてはならないと思った。
そんな決意を汲んでくれ、この忙しいのに彼女付きの軍の補佐官が、全てを揃えてくれた。
軍人が冬の訓練をする時に、必要な物一式だ。
手袋や靴下なんて、生易しい話ではない。
まずは、肌に油を塗るところから始まるのだ。
普通の油ではなく、鉱物油と香辛料などを配合したもので、保湿と保温に優れている。
肌がぴりぴりする感触に耐えながら、ウィニーは全身にそれを塗り込んだ。
それから肌着を二枚着こみ、ハイネックの細かく編まれたセーターも着こむ。
そしてようやく軍服を着用し、冬季用の重い皮のコートが来る。
更にハイネックの襟に、輪になって編まれた毛糸のネックウォーマーを当てる。
このネックウォーマーは、普段は二重に折っておくが、寒波が酷い時は伸ばして顔の下半分まで覆う。
耳あてのある皮帽を子かぶり、ロアアール軍の防寒仕様装備の出来上がりだ。
勿論、軍人の腰には全員度数の高い酒の入る、鋳物の水筒が取り付けられている。
この軍は、酒まで含めて装備の一環なのだ。
軍からはぐれて遭難した際の、生き残り方まで徹底して訓練されている。
元々、この地域では軍とは関係なく、子どものうちにそれを親から叩きこまれているのだが。
ロアアールに生まれた人間が、決して寒さで死ぬことがないように、と。
こんな真冬装備のおかげで、ウィニーは何とか寒さに耐えられている。
何しろ彼女は、腐っても公爵令嬢。
真冬に外を歩く理由がないため、温かい暖炉に守られてきた、ロアアールの中でもひよわな方なのだ。
そういう意味では。
ロアアールの真冬装備より、格段に落ちる王都の近衛軍には、相当辛い行軍だろう。
しかし、それもまたアーネル将軍の考えのひとつである。
この行軍で大多数が脱落してくれれば、それだけ彼の仕事がやりやすくなるのだ。
近衛軍の脱落を見越して、兵数を調整しているという。
更に言えば、ここで王太子が脱落してくれれば、願ったり叶ったりである。
王宮の、不自由ない生活をしてきた男ならば、近衛の騎士たちよりももっとこの寒さを辛く感じることだろうから。
ウィニーが、ちらりと彼を見ると、相変わらず機嫌の低い表情をしたまま白い息を吐いている。
まだ、音をあげそうにはない。
ただ、そんな彼の鼻の頭は赤くなっていて、表情とのギャップに、ちょっとだけ笑いそうになってしまった。
笑えなかったのは──王太子から気温より低い温度の視線が、彼女へと飛んできたせいだった。
アーネル将軍は、率直かつ庶民的な言葉で、ウィニーに本心を伝えてくる。
剛の将軍ではあるが、市民の出のためか、言葉がとても分かりやすい。
軍舎の一室。
姉からの書状を、彼に届けに来た時のことである。
その書状を、端から端まで眺め回した後、このロアアールで一番若い将軍は、ツルツルの頭を光らせながら大きく唸り、先ほどの発言をしたのである。
「アーネル将軍の気持ちは、痛いほど理解しています」
ウィニーは、自分も同意見であることを真面目な顔で伝えた。
姉の書状の中には、王太子の近衛軍と共に、ウィニーが入ることが書かれていたはずだ。
彼が、王太子だけではなく、自分まで含めて『ぼんくら』と言っているとしても、それは事実だった。
「お嬢様……ワシは二十年前の、国軍のことを知っております。ありゃーもう、本当に人数合わせが精一杯の、しょうもない軍でした」
彼の言葉は、ウィニーも理解しているつもりだ。
それは、知識の上だけに過ぎないが、補佐官より二十年前の資料の説明を受けていた。
おかげで、ロアアールの軍隊の国軍への信頼度は、限りなく低くなっている。
「今回……足手まといになるのは百も承知で、将軍にこの件をお願いしたいのです」
ロアアールの数少ない矛である彼の軍隊に、王太子と近衛軍、そしてウィニーという異分子が入るのは、彼らにとって邪魔以外の何者でもないことくらいよく分かっていた。
「王太子殿下は、極力私が何とかします」
だから、彼女はこう言うしか出来ないのだ。
ロアアールのために、この小さな身体を張る、と。
アーネル将軍は、ひょいとウィニーの黒い瞳を覗き込む。
いっそ、不躾だと思うほど簡単に公爵令嬢の目を見る男だ。
「そこまでおっしゃるのであれば、ワシもがんばりはしますがね……時にお嬢様、寒さには耐えられますか?」
将軍の目が、きらっと光を反射したような気がした。
※
ウィニーは、王太子のすぐ横で馬を歩かせながら、己の身が震えそうになるのを耐えなければならなかった。
攻撃軍は、ふた手にわけられた。
一つは、敵の防衛線の薄い部分を正面から突く大部隊。
フラの軍──すなわちスタファは、こちら側に配置されることとなった。
もう一つは、険しい山を経由して、敵の側面に出る奇襲部隊。
王太子と近衛軍は、こちら側に配置されたのだ。
『どちらも同じ前線ですから、文句もありますまい』
アーネル将軍はそう言ったが、ウィニーは多くの心配を抱えていた。
ロアアールに春がきたと言っても、それは平地の部分だけだ。
山の高度によっては、雪がまだ残っている。
実際、いま馬が踏みしめている道の端には、溶け切れていない雪が凍った塊のような形で残っている。
雪が残っているということは。
「うう……」
後列の誰かの、震える声が漏れ聞こえる。
ウィニーは、確信していた。
その誰かは、近衛軍の中にいる、と。
冬でも訓練にいそしむロアアールの軍人が、この程度の寒さで音を上げるはずがない。
だからこそ、どんなに寒くてつらくても、ウィニーは絶対に声をあげてはならないと思った。
そんな決意を汲んでくれ、この忙しいのに彼女付きの軍の補佐官が、全てを揃えてくれた。
軍人が冬の訓練をする時に、必要な物一式だ。
手袋や靴下なんて、生易しい話ではない。
まずは、肌に油を塗るところから始まるのだ。
普通の油ではなく、鉱物油と香辛料などを配合したもので、保湿と保温に優れている。
肌がぴりぴりする感触に耐えながら、ウィニーは全身にそれを塗り込んだ。
それから肌着を二枚着こみ、ハイネックの細かく編まれたセーターも着こむ。
そしてようやく軍服を着用し、冬季用の重い皮のコートが来る。
更にハイネックの襟に、輪になって編まれた毛糸のネックウォーマーを当てる。
このネックウォーマーは、普段は二重に折っておくが、寒波が酷い時は伸ばして顔の下半分まで覆う。
耳あてのある皮帽を子かぶり、ロアアール軍の防寒仕様装備の出来上がりだ。
勿論、軍人の腰には全員度数の高い酒の入る、鋳物の水筒が取り付けられている。
この軍は、酒まで含めて装備の一環なのだ。
軍からはぐれて遭難した際の、生き残り方まで徹底して訓練されている。
元々、この地域では軍とは関係なく、子どものうちにそれを親から叩きこまれているのだが。
ロアアールに生まれた人間が、決して寒さで死ぬことがないように、と。
こんな真冬装備のおかげで、ウィニーは何とか寒さに耐えられている。
何しろ彼女は、腐っても公爵令嬢。
真冬に外を歩く理由がないため、温かい暖炉に守られてきた、ロアアールの中でもひよわな方なのだ。
そういう意味では。
ロアアールの真冬装備より、格段に落ちる王都の近衛軍には、相当辛い行軍だろう。
しかし、それもまたアーネル将軍の考えのひとつである。
この行軍で大多数が脱落してくれれば、それだけ彼の仕事がやりやすくなるのだ。
近衛軍の脱落を見越して、兵数を調整しているという。
更に言えば、ここで王太子が脱落してくれれば、願ったり叶ったりである。
王宮の、不自由ない生活をしてきた男ならば、近衛の騎士たちよりももっとこの寒さを辛く感じることだろうから。
ウィニーが、ちらりと彼を見ると、相変わらず機嫌の低い表情をしたまま白い息を吐いている。
まだ、音をあげそうにはない。
ただ、そんな彼の鼻の頭は赤くなっていて、表情とのギャップに、ちょっとだけ笑いそうになってしまった。
笑えなかったのは──王太子から気温より低い温度の視線が、彼女へと飛んできたせいだった。