南の海を愛する姉妹の四重奏
アーネル将軍と軍人たちの我慢強さは、本当に恐るべきものだった。
奇襲軍という特性上、敵に迂回を察知されるわけにはいかないため、明るい内は一切の火の使用を禁じたのだ。
昼食に温かい食事などあるはずもなく、かちかちのパンと干し肉をかじる。
男たちは、身体を温めるために酒をあおる。
「お嬢様も、一口だけでもいいから飲んでおいた方がよろしいかと」
昼の休憩の時に、アーネル将軍が近付いてきてそう告げる。
彼の視線の先は、ウィニーの腰に下がっている小さな水筒があった。
晩餐の時などに、軽くワインをいただくことはあるが、これはそういうものではない。
味は、すこぶるまずいと補佐官が言っていた。
予算を抑えるために、行軍用の酒に関しては質よりも量が必要なのだ。
食料の乏しいロアアールゆえに、そのような苦労を軍人に強いている。
それでも、身体の冷えには耐えきれず、ウィニーは腰から酒の水筒を取り上げ、ひと舐めだけしてみた。
うー、まずにがい。
別の意味で、首筋が震えそうだった。
ワインと比べれば、香りもなければ甘みもない。
だが、口の中で液体が触れた部分から、まるで火がついたかのように熱くなるのが分かった。
舌から喉にかけて、一本の炎の道が出来る。
あつっ。
見事な効きっぷりに驚いて、ウィニーは思わず手に持った水筒を眺めてしまった。
さすがは、ロアアール軍の知恵だと感心せざるを得ない。
炎の道は、胸を通過する。
呼吸が突然温かく、楽になった気がした。
近衛軍に、酒は配布されていない。防寒用の衣服の追加も、食料の配布もない。
軍はその部隊だけで、全てを完結させなければならないのだ。援軍に来たからには、自分の食料と装備は持参するのが基本だった。
勿論、近衛軍は常識で考えられるものは、ちゃんと持ち込んでいた。
しかし、ここは都の常識は通用しないロアアールである。
近衛軍たちは、みな身を寄せ合うようにして寒さと戦い続けていた。
王太子は、己の黒馬の側に立っている。
腕を組み、むっつりと黙りこんだまま、隅の雪を見ている。
命に興味のない男も、拷問のようにただ続くだけの寒さには辟易しているのだろうか。
脱落、してくれないかな。
そう思いながらも、心のどこかでは無理だろうと思っている。
どれほど体調を崩そうが、彼は前線まで来るのではないかと感じるのだ。
ウィニーは、ゆっくりと王太子の方へと歩みを進めた。
黒い前髪の間から、緑がかった灰色の目がこちらに向けられる。
「このまま眠れば……死ぬか?」
かちと、彼の奥歯がぶつかる音が聞こえた。
声も言葉も皮肉に彩られているが、やはり堪えているのは間違いないようだ。
ここではなく、出来れば都で死んで下さいと言う言葉をぐぐぐっと飲み込みながら、ウィニーは酒の水筒を差し出す。
「殿下が死ねば私も死ぬので、どうぞ飲んで下さい」
彼の言葉からも、前線へ行くか死か──その二択しかないように感じられ、ウィニーは自分の無事を願うように、彼の無事を願わなければならなかった。
不本意ながら、見えない命の鎖で繋がれた今、彼女は王太子を気にかけなければならない立場なのだ。
「飲ませたければ、勝手に飲ませればいいだろう」
水筒の口の中に虚空でも見るような目で、彼は皮肉に唇を歪める。
そして、ウィニーを言葉で突き放すのだ。
いや、引き寄せているのかもしれない。
彼の言う通りのことをすれば近くなるし、しなければ遠くなる。
この場合、ウィニー自身が王太子から遠ざかれば遠ざかるほど、危険なことが待っている気がした。
馬具のない暴れ馬なのだ、この男は。
たてがみだけでも握っていないと、何をしでかすか分からない。
彼女は、ぐぐっと水筒を持つ手に力を込めた。
これを飲ませたくとも、彼は立っていてウィニーより背が高い。
水筒を、王太子の口に押し付けて流し込むなんて暴挙が、出来るはずもなかった。
だから。
ウィニーは、水筒をそーっと傾けて。
その中の一滴を。
手袋を外した自分の人差し指の腹に、乗せたのだ。
指に乗せた酒の滴を、そーっと王太子の唇まで運ぼうとしたのである。
そんな彼女の懸命な様子を、彼は小さく笑った。
「愚かしい上に、色気もない田舎者だな、お前は」
ロアアール軍の中で、ロアアールの公爵令嬢を面と向かって罵倒する王太子の言葉など、いまのウィニーはよく聞いていなかった。
ただ、彼女の使命はいまはひとつ。
この指を──王太子の口に突っ込むことだけだった。
奇襲軍という特性上、敵に迂回を察知されるわけにはいかないため、明るい内は一切の火の使用を禁じたのだ。
昼食に温かい食事などあるはずもなく、かちかちのパンと干し肉をかじる。
男たちは、身体を温めるために酒をあおる。
「お嬢様も、一口だけでもいいから飲んでおいた方がよろしいかと」
昼の休憩の時に、アーネル将軍が近付いてきてそう告げる。
彼の視線の先は、ウィニーの腰に下がっている小さな水筒があった。
晩餐の時などに、軽くワインをいただくことはあるが、これはそういうものではない。
味は、すこぶるまずいと補佐官が言っていた。
予算を抑えるために、行軍用の酒に関しては質よりも量が必要なのだ。
食料の乏しいロアアールゆえに、そのような苦労を軍人に強いている。
それでも、身体の冷えには耐えきれず、ウィニーは腰から酒の水筒を取り上げ、ひと舐めだけしてみた。
うー、まずにがい。
別の意味で、首筋が震えそうだった。
ワインと比べれば、香りもなければ甘みもない。
だが、口の中で液体が触れた部分から、まるで火がついたかのように熱くなるのが分かった。
舌から喉にかけて、一本の炎の道が出来る。
あつっ。
見事な効きっぷりに驚いて、ウィニーは思わず手に持った水筒を眺めてしまった。
さすがは、ロアアール軍の知恵だと感心せざるを得ない。
炎の道は、胸を通過する。
呼吸が突然温かく、楽になった気がした。
近衛軍に、酒は配布されていない。防寒用の衣服の追加も、食料の配布もない。
軍はその部隊だけで、全てを完結させなければならないのだ。援軍に来たからには、自分の食料と装備は持参するのが基本だった。
勿論、近衛軍は常識で考えられるものは、ちゃんと持ち込んでいた。
しかし、ここは都の常識は通用しないロアアールである。
近衛軍たちは、みな身を寄せ合うようにして寒さと戦い続けていた。
王太子は、己の黒馬の側に立っている。
腕を組み、むっつりと黙りこんだまま、隅の雪を見ている。
命に興味のない男も、拷問のようにただ続くだけの寒さには辟易しているのだろうか。
脱落、してくれないかな。
そう思いながらも、心のどこかでは無理だろうと思っている。
どれほど体調を崩そうが、彼は前線まで来るのではないかと感じるのだ。
ウィニーは、ゆっくりと王太子の方へと歩みを進めた。
黒い前髪の間から、緑がかった灰色の目がこちらに向けられる。
「このまま眠れば……死ぬか?」
かちと、彼の奥歯がぶつかる音が聞こえた。
声も言葉も皮肉に彩られているが、やはり堪えているのは間違いないようだ。
ここではなく、出来れば都で死んで下さいと言う言葉をぐぐぐっと飲み込みながら、ウィニーは酒の水筒を差し出す。
「殿下が死ねば私も死ぬので、どうぞ飲んで下さい」
彼の言葉からも、前線へ行くか死か──その二択しかないように感じられ、ウィニーは自分の無事を願うように、彼の無事を願わなければならなかった。
不本意ながら、見えない命の鎖で繋がれた今、彼女は王太子を気にかけなければならない立場なのだ。
「飲ませたければ、勝手に飲ませればいいだろう」
水筒の口の中に虚空でも見るような目で、彼は皮肉に唇を歪める。
そして、ウィニーを言葉で突き放すのだ。
いや、引き寄せているのかもしれない。
彼の言う通りのことをすれば近くなるし、しなければ遠くなる。
この場合、ウィニー自身が王太子から遠ざかれば遠ざかるほど、危険なことが待っている気がした。
馬具のない暴れ馬なのだ、この男は。
たてがみだけでも握っていないと、何をしでかすか分からない。
彼女は、ぐぐっと水筒を持つ手に力を込めた。
これを飲ませたくとも、彼は立っていてウィニーより背が高い。
水筒を、王太子の口に押し付けて流し込むなんて暴挙が、出来るはずもなかった。
だから。
ウィニーは、水筒をそーっと傾けて。
その中の一滴を。
手袋を外した自分の人差し指の腹に、乗せたのだ。
指に乗せた酒の滴を、そーっと王太子の唇まで運ぼうとしたのである。
そんな彼女の懸命な様子を、彼は小さく笑った。
「愚かしい上に、色気もない田舎者だな、お前は」
ロアアール軍の中で、ロアアールの公爵令嬢を面と向かって罵倒する王太子の言葉など、いまのウィニーはよく聞いていなかった。
ただ、彼女の使命はいまはひとつ。
この指を──王太子の口に突っ込むことだけだった。