南の海を愛する姉妹の四重奏
 口移しで、女の喉に無理矢理に酒を流し込んだことはある。

 酔ってふらふらになった女に、なおも酒を注ぎこむ。

 意味不明な言葉を発し、真っ青になった女はついに嘔吐し始める。

 王太子は、酒が毒に変わっていく様子を見つめていた。

 そして、女も汚物も──その場に打ち捨てた。

 ※

 手袋の外された白い指が、王太子に向かって差し出されている。

 細く頼りない人差し指の腹を上に向け、その上に一滴のしずくを乗せたまま、彼に向ってゆっくりゆっくりと持ち上げられるのだ。

 ほんのささいな震えでさえ、赤毛の娘の行為を台無しにしかねないが、彼女は針に糸を通すよりも慎重な動きで、そのくだらない目的を達成しようとしていた。

 王太子の口に、その一滴を流し込むだけのために。

 田舎娘の、浅はかな考えによる行動。

「愚かしい上に、色気もない田舎者だな、お前は」

 彼女の目論見など、この一言で木端微塵だろう。

 少なくとも、王太子は心の端でそんなことを考えていた。

 しかし、赤毛の娘は瞳ひとつ揺らすことはない。

 そのまなざしの中心にたった一滴を据えて、息さえ止めて集中しているのだ。

 これが、崇高な仕事であるかのように。

 馬鹿馬鹿しい。

 拒否してやろうか、噛んでやろうか。

 いや。

 きっと、その一滴が彼の唇の直前で台無しにされることが、いまの彼女には一番堪えることだろう。

 ロアアールの冷たさで、心の芯まで冷え切らせた男は、そんな残酷なことを考えた。

 だが。

 彼の視界の端で、世界は動いた。

 震える王都の近衛兵たちに、次々と無骨な手で水筒が差し出されるのだ。

 無口で頑強なロアアールの兵士たちが、軟弱な彼らを助けようとしている。

 その刹那。

 王太子の心で、笑いが爆ぜた。

 本当に馬鹿馬鹿しい、と。

 公爵家の血を引く者が、不格好ながらに王太子に酒を分けようとしたその姿を見て、その意思に自然に従おうとしたのだ。

 ロアアールの将軍は、この凍える行軍で王都の近衛軍が脱落することを望んでいる。

 それくらい、彼は理解していた。

 そんな将軍の意思と逆なことを、この娘がやってしまったというのに、下の者は彼女に従ったのだ。

 こんな小娘でも、ロアアールの軍の懐に入り込んでいる。

 既に、少なからず影響を与えられる人間になっている。

 いまは、まだそれは小さな影響だろう。

 だが、この先、彼女が軍と近く良好な関係を維持し続けた場合、更に強いものに変わることも考えられる。

 次期公爵とは薄い軍との関係を、強くつなぐ楔になれる者。

 愚かであっても、冷たくはない。

 戦う力はなくとも、すぐ側にいる。

 信頼関係の糸が、いま王太子の目の前を掠めたのだ。

 これが、笑わずにはいられるか。

 そんな関係など。

 夜露よりも、儚いものだというのに。

 王太子は。

 彼女が差し出そうとする人差し指を。

 無視した。

 代わりに。

「あっ」

 赤毛の娘が、もう片方の手に持っていた水筒を奪い取る。

 その振動で、彼女の指の上の一滴は、幻と消えるのだ。

 成しえなかった現実に、彼女は指先を見詰めたまま、少しの間固まっていた。

 そんな隙間で。

 王太子は、直接水筒に口をつけ、酒を流し込んだ。

 これまで飲んだ、どんな酒よりもまずい味が、口の中にぱっと広がる。

 しかし、今はそのまずささえも心地よいほどだ。

 目障りな赤毛を片手で掴むと、「いたっ」という悲鳴と共に、彼女の顔が上を向く。

「……!」

 王太子は、この地の時間を止めてやった。

 目の前の女も、近衛もロアアール兵も、何もかもがいま起きたことに一瞬動きを止めたのである。

 彼は──赤毛の娘に口移しで酒を流し込んでやったのだ。

 これでいい。

 王太子は、唇を離してやりながら、彼女に笑いかける。

 顔をそらしながら、大きく咳き込む娘に、極上の笑みを浮かべてやるのだ。

 イスト(中央)嫌いのロアアール。

 ただの一人も、王太子の側室に娘を送ることのない頑なな地。

 それを誇りに思っている軍人たちの目の前で、彼女と口づけたのである。

 見ていた者が、心穏やかであるはずがない。

 不信の種をまくのは、こんなにも簡単だ。

 誇りも信頼も。

 粉々に砕け散ればいい。

 ゴクリと。

 彼は、口の中に残った苦い毒を、飲み干したのだった。


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