南の海を愛する姉妹の四重奏
 ウィニーは、アーネル将軍の天幕へと駆けつけた。

 彼女にとって、手放しで喜べない状況が、そこにはあったのだ。

「これは、お嬢様。お見苦しくて申し訳ございません」

 脇によける参謀たちの奥に、彼はいた。

 しかし、ウィニーが前後不覚となる前のアーネル将軍と、同じ様子ではない。

 目から下が、包帯でぐるぐる巻きにされていたのだ。

 唇のところだけは包帯はよけられているものの、余り大きく口を開けることが出来ないようで、言葉も通常よりくぐもった音だった。

 その光景を前に、彼女は立ちつくす。

 自分が、王太子の頬を張り飛ばしたと聞いた。

 その代償が、何もないなんておかしい話だ。

 彼女の知る限りの王太子が、そんなに優しいはずがない。

 言葉を濁す補佐官に詰め寄り、ようやく白状させたものは──アーネル将軍が、代わりに代償を支払ったということ。

 王太子は、将軍の頬を抉ったのだ。

 罪人にする焼き印と同じ×の形に、頬に大きな傷をつけた。

 ロアアールを守る三将軍の一人を、王太子は罪人扱いしたのである。

 それもこれも、ウィニーの不始末のために。

「み、見苦しくなんかありません」

 ここに駆けつけるまで、彼女は何と言って詫びたらいいのか、そればかりを考えていた。

 しかし、堂々たる将軍の目が、ウィニーを踏みとどまらせる。

 恥も後悔もなく、それどころか、満足さえ浮かべているかのように見える瞳。

 そんなアーネル将軍に、彼女がどうして詫びることが出来ようか。

 自分の心と将軍の心の温度差に、ウィニーはぎゅっと拳を握った。

 男、なのだ。

 彼は、誇り高きロアアールの男。

 そんな男の誇りを、自分が台無しにしてはならないことだけは、拳に食い込む爪の痛みを感じながら理解した。

「いや、見苦しいでしょうな。これでは、髭の手入れも出来ません」

 ニヤッと、わずかに口元を歪めるように将軍は笑う。

 大きい男だ。

 そして、まだ自分は小さな女だということを、ウィニーは全身で思い知る。

 男の道を、彼女は歩けない。

 歩いているフリは出来るかもしれないが、それは決して同じものではない。

 女であるから守られたというのならば、彼女は女の道を歩きながら、彼に尊敬される者にならねばならないのだ。

「将軍の傷を……絶対に誰にも笑わせはしません」

 出来ることなら、今すぐ自分の頬を同じ形に傷つけたい。

 それは、ウィニーが受けるべきものだった。

 だが、それはアーネル将軍の思いを、台無しにしてしまうことである。

「この傷は、私の自慢ですぞ。包帯が取れたら、ロアアール中に見せて回りたいくらいですな」

 そう言って笑う将軍に、ウィニーは込み上げるものを、ぐっと飲み込まなければならなかった。

「これは、お嬢様とワシがイスト(中央)に楯突いた証明……これほどの栄誉はありゃしません」

 彼は、年を感じさせない精悍な瞳を細める。

「我らの頬にも、同じ傷が欲しいほどです」

 控えめに、しかし確固たる意思の声が、周囲の参謀からあがり、天幕の中に微かな笑いが生まれた。

「それに……」

 アーネル将軍のまっすぐな声は、笑いをぴたりと止めるだけの強さがある。

 彼が、何か大事なことを言おうとしているのだと、みなが一瞬で察知したのだ。

「それに……今回の件で、お嬢様は近衛軍の一部も味方につけたようですな」

 意外な話だった。

 二人の光景は、多くの人間の視線にさらされていた。

 それが、よかったのだと言う。

「あの時、殿下はワシを斬り捨てようとされました」

 将軍の言葉は、ウィニーにとって衝撃的であったが、だが同時に深く納得もした。

 それくらい、やりかねない、と。

 王太子にとって、他人の命とは──どうでもいいものだ。

 そう、彼女は思っている。

 だから、殺すことをためらわないが、殺すことに執着はしない。

 でなければ、とっくにウィニーは死んでいる。

「その時、殿下を止めに入ったのが……近衛軍の隊長でした」

 こっちの言葉の方が、ひどく彼女を驚かせた。

 公爵家の二階で見た騎士たちは、みな王太子に逆らえないでいたのだ。

 そんな彼らが、ロアアールとのいざこざに首を突っ込んできたというのである。

「もし、あの時殿下が私を斬り捨てていたら……我が軍は王太子と近衛軍に対して、憎悪を抱いていたでしょうな」

 王太子が死ぬことを除けば、それは最悪の結果だ。

 軍内で暴動でも起きたならば、近衛軍は生きて帰ることは出来なかっただろう。

 ロアアールとイストの戦争に、発展しかねない火種だった。

 ウィニーの背筋に、冷たいものが走る。

「だから、実はお嬢様……この傷を負ったのは」

 将軍に、皆まで言われなくとも分かった。

 罪人の印を頬に負ったのは、アーネル将軍だけではないのだ。

 近衛軍の隊長もまた、同じ傷をつけられたに違いない。

 ロアアール軍は、将軍の傷を誇りに思っている。

 だが、近衛軍の隊長の傷は、同じ意味ではない。

 自分の守るべき相手につけられた、屈辱の傷。

 その屈辱は、ロアアール軍と同じように、近衛軍全体で共有されるのだ。

「ひどいですね」

 ウィニーは、心の中に渦巻く多くの事をまとめて、その一言で表した。

 特に、王太子が自分の部下にしでかした事は、致命的に思える。

 みなの心に、保身という根が張っている限り、王太子である彼は安泰だろう。

 だが、もしその根がちぎれてしまった時。

 誰も、彼を守る者はいない。

「ひどいですが……好都合でもありますなぁ」

 アーネル将軍は──皮肉に笑った。


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