南の海を愛する姉妹の四重奏
人は死ぬ。
本人の意思など関係なく、ある日あっさり事切れる。
王太子は、こちらに向かって崩れゆく女を見ていた。
赤い髪の向こうで、赤い血が迸っている。
揶揄でも何でもなく、たったいま彼の目の前で、彼女は背中を斬られたのだ。
その衝撃に耐えられなかった身体が、王太子の方へとその身を傾がせる。
ああ、これは死ぬな。
思考より早く、王太子はそう感じていた。
信じられないほどゆっくりとした時間をかけて、娘は彼の腕の中におさまった。
しかし、その身に強い意思はなく、しがみつくこともなく、そのまま地面に膝から落ちそうになっている。
彼女の身の向こうに、剣を持って立っている男がいる。
近衛の鎧を身にまとい、近衛の剣をその手に持ち、ぶるぶると震えながらこちらを見ている。
目には、狂気。
王太子という人間に耐え切れなくなり、心の箱が壊れた弱い男だ。
彼は、片腕で娘を支えながら剣を引き抜いて、男の喉にあっさりと突き立てた。
そして──ここには、生きている者と死んでいる者と、死にかけている者の三つの身体となったのだ。
声も出せずに、ただ荒い呼吸を繰り返す娘の顔色は、髪の色とは反対にどんどん青くなっていく。
そうか、死ぬか。
※
王太子は、自分の命を使おうと思っていた。
それは、良い意味ではなかったが、彼にしてみれば珍しいことでもあったのだ。
国境を越えて異国へ行く。
ロアアールの向こうには、平和ではない世界があるという。
ならば、この国にしがみついている理由など、ないのではないかと考えたのだ。
生きている理由が、さしてないのだから、王太子でいる理由も同じことだった。
だから、この会戦のどさくさに紛れて、一人で抜け出そうとしたのである。
途中で、敵に捕まる可能性も十分あったが、やはりそんなことはどうでもよかった。
見事な側面攻撃が決まっているのを山腹から見ていた彼は、周囲の歓声の隙に群れから離れる。
道のない山に入るには、馬は邪魔で。
王太子は、あっさり愛用の馬を捨てて斜面を登っていったのだ。
抜け出した彼を、すぐに追ってきたのは──二人いた。
側にいた赤毛の娘と、狂気の反逆者。
そして、反逆者が振り上げる剣の前に、彼女が身を投げ出すように飛び出して来た──これが、事の顛末である。
ロアアールにとって、最高の場面だったはずだ。
この地に何の咎も降りかからず、王太子を消せたかもしれない好機を、この愚かな娘が台無しにしてしまったのである。
「……の」
彼の腕の中の死にかけた身体が、音を発する。
腕にかかっていた手が、ぎゅうっと信じられないほど強い力で握られた。
「帰る……の……」
震える唇だが、言葉はしっかりと紡がれる。
しぶといものだ。
このまま、王太子自身が彼女を抱えているだけで、そう遠くなく彼女は死ぬだろう。
しかし、娘はそれに逆らおうとしている。
このまま、この娘が死ぬ。
彼女を、見下ろす。
この人間の心も身体も全て消え去り、記憶も過去へと押し流して行く。
王太子は、赤毛の女を手に入れることは出来ていない。
それどころか、自分の手で殺すことも出来ないままだ。
他の人間の手によって、しかも自分をかばうなどというくだらない原因で、この娘は死ぬ。
ふつ、と。
身体の中で、小さな気泡が弾けた気がした。
静かだが、分かりやすい音がそこにはあった。
ああ、と。
王太子は、思った。
ああ。
それは。
とても。
つまらない。
ことだな、と。
生きて、うるさくて、思い通りにならなくて、面倒で、さして美しくもなく、さして賢くもなく、さして価値があるとは思わないが。
その方が、つまらなくはないようだ。
王太子は、彼女を肩に担ぎ上げ──山を下り始めた。
本人の意思など関係なく、ある日あっさり事切れる。
王太子は、こちらに向かって崩れゆく女を見ていた。
赤い髪の向こうで、赤い血が迸っている。
揶揄でも何でもなく、たったいま彼の目の前で、彼女は背中を斬られたのだ。
その衝撃に耐えられなかった身体が、王太子の方へとその身を傾がせる。
ああ、これは死ぬな。
思考より早く、王太子はそう感じていた。
信じられないほどゆっくりとした時間をかけて、娘は彼の腕の中におさまった。
しかし、その身に強い意思はなく、しがみつくこともなく、そのまま地面に膝から落ちそうになっている。
彼女の身の向こうに、剣を持って立っている男がいる。
近衛の鎧を身にまとい、近衛の剣をその手に持ち、ぶるぶると震えながらこちらを見ている。
目には、狂気。
王太子という人間に耐え切れなくなり、心の箱が壊れた弱い男だ。
彼は、片腕で娘を支えながら剣を引き抜いて、男の喉にあっさりと突き立てた。
そして──ここには、生きている者と死んでいる者と、死にかけている者の三つの身体となったのだ。
声も出せずに、ただ荒い呼吸を繰り返す娘の顔色は、髪の色とは反対にどんどん青くなっていく。
そうか、死ぬか。
※
王太子は、自分の命を使おうと思っていた。
それは、良い意味ではなかったが、彼にしてみれば珍しいことでもあったのだ。
国境を越えて異国へ行く。
ロアアールの向こうには、平和ではない世界があるという。
ならば、この国にしがみついている理由など、ないのではないかと考えたのだ。
生きている理由が、さしてないのだから、王太子でいる理由も同じことだった。
だから、この会戦のどさくさに紛れて、一人で抜け出そうとしたのである。
途中で、敵に捕まる可能性も十分あったが、やはりそんなことはどうでもよかった。
見事な側面攻撃が決まっているのを山腹から見ていた彼は、周囲の歓声の隙に群れから離れる。
道のない山に入るには、馬は邪魔で。
王太子は、あっさり愛用の馬を捨てて斜面を登っていったのだ。
抜け出した彼を、すぐに追ってきたのは──二人いた。
側にいた赤毛の娘と、狂気の反逆者。
そして、反逆者が振り上げる剣の前に、彼女が身を投げ出すように飛び出して来た──これが、事の顛末である。
ロアアールにとって、最高の場面だったはずだ。
この地に何の咎も降りかからず、王太子を消せたかもしれない好機を、この愚かな娘が台無しにしてしまったのである。
「……の」
彼の腕の中の死にかけた身体が、音を発する。
腕にかかっていた手が、ぎゅうっと信じられないほど強い力で握られた。
「帰る……の……」
震える唇だが、言葉はしっかりと紡がれる。
しぶといものだ。
このまま、王太子自身が彼女を抱えているだけで、そう遠くなく彼女は死ぬだろう。
しかし、娘はそれに逆らおうとしている。
このまま、この娘が死ぬ。
彼女を、見下ろす。
この人間の心も身体も全て消え去り、記憶も過去へと押し流して行く。
王太子は、赤毛の女を手に入れることは出来ていない。
それどころか、自分の手で殺すことも出来ないままだ。
他の人間の手によって、しかも自分をかばうなどというくだらない原因で、この娘は死ぬ。
ふつ、と。
身体の中で、小さな気泡が弾けた気がした。
静かだが、分かりやすい音がそこにはあった。
ああ、と。
王太子は、思った。
ああ。
それは。
とても。
つまらない。
ことだな、と。
生きて、うるさくて、思い通りにならなくて、面倒で、さして美しくもなく、さして賢くもなく、さして価値があるとは思わないが。
その方が、つまらなくはないようだ。
王太子は、彼女を肩に担ぎ上げ──山を下り始めた。