南の海を愛する姉妹の四重奏
公爵邸に、一番最初に帰って来たのは──王太子だった。
レイシェスは、心の中で荒れ狂う怒りを喉元に抑えながら、彼を出迎える。
既に、詳細な報告は入っていた。
何故、ウィニーが大怪我を負ったのか。
この男の不始末の、身代わりになったのである。
何故、ウィニーがそんなことをしたのか、レイシェスには分からない。
しかし、妹は好機だからと言って、誰かを見殺しにするような人間ではない。
もし、そうであれば、ウィニーにはこれまで、多くの機会があった。
王太子を見殺しにする機会ではなく、レイシェスを陥れる機会だ。
母から、あれほど差別のある仕打ちを受けていたのだから、妬みや憎しみで性格が歪んでもおかしくなかった。
レイシェスを見捨て、自分が次期女公爵に座る機会を手に入れることだって、可能性としてはあった妹だが、そんなことは思いつきもしなかったに違いない。
王太子の場合も、同じだったのだろう。
頭で画策を巡らすよりも、きっとウィニーは飛び込んで行ったのだ。
「この度の援軍、誠にありがとうございました」
挨拶を終えるなり、レイシェスは過去形で物事を語った。
さっさと帰れと、暗黙に伝えたのである。
彼女は、ウィニーが帰ってきたら、ゆっくり静養をさせるつもりだった。
この問題児を、妹は己の怪我だけでおさめてくれたのだ。
十分、ねぎらわれるべきだろう。
おまけに、王都に対して王太子を命を賭けて守ったという、貸しまで作ってくれた。
この男が貸しと思わなくとも、イスト(中央)がそう思ってくれればいいのだ。
そんな大働きをした妹の静養の邪魔を、これ以上王太子にされてはたまらないと考えたのである。
王太子は、わずかの疲れもにじませることなく、開いた公爵邸の扉の境から、出迎えのレイシェスを見ている。
その黒髪をわずかに傾け、その灰緑の目をわずかに細め、彼は言った。
「お前の妹は……何という名だ?」
その瞬間の、レイシェスの怒りは筆舌に尽くしがたい。
あれほど執着したかのように見せ、側室に引き寄せようとしたにも関わらず、彼はウィニーの名前さえ知らなかったのだ。
妹は、この男のために、命さえ賭ける覚悟で前線に向かったと言うのに、だ。
王太子が、これまでウィニーにしてきたことは、名もない虫けらにしてきたことと、何ら大差がなかったのである。
レイシェスは、自分の身体からロアアールの冷たい朝靄が、立ち上るのではないかと思った。
震えそうになる唇を、不自然なほど笑みで固め、吊り上がりそうになる目を無理矢理に視線を下げて抑えつける。
「もはや二度とお会いすることはない妹の名など殿下には無用のものにございましょう」
自分でも、驚くほどの棒読みだった。
社交辞令の音階さえ、忘れてしまったかと感じたほど。
なのに。
王太子は、その口元に笑みを浮かべたのだ。
「あの娘に、面白いものをくれてやろうと言うのだ。ラットオージェン公爵の妹になる、あの娘に、な」
彼の顔に、喜びに似た色が映った気がした。
優しさも感じない、自分勝手なものばかりが詰め込まれた笑み。
彼の言い様を聞いていると、まるでウィニーが怪我などしていないかのように感じる。
「妹は、何も欲しがらないでしょう」
「勘違いをするな。ラットオージェン公爵の妹として、受け取らなければならないと言っているのだ」
レイシェスの拒否は、頭ごなしに叩き割られた。
侯爵家の血筋として、王家から何かもらえと言っているのだ。
決して覆すことの出来ない上下関係が、彼女に悔しさをにじませる。
レイシェスが、王によって新しい公爵に任命されるように、ウィニーもまた、その上下関係の呪縛から逃れることは出来ない。
「妹のことなど、どうぞお忘れ下さい」
手のひらに、自分の爪が強く食い込むのさえ感じられないまま、レイシェスは絞り出すように言った。
まだ、自分が嬲られる方が、百倍マシだと思ったのだ。
昔の彼女は、弱虫だった。
母に逆らえず、ウィニーにとっていい姉であることは出来なかった。
でも、今は違う。
今ならば、昔よりもう少しはマシに、妹の助けになることが出来るはずだ。
それが、たとえ王太子の前では、小さな抵抗であったとしても。
そんな抵抗を前に、彼は軽く虚空を見上げた。
何かを思い出すかのように。
何か──いや、誰かを。
「ああ」
肯定の意味ではなく、ほんのわずかに感嘆のこもった音の後。
「ああ……それは、無理な相談だな」
王太子は、レイシェスの手のひらの爪跡を、もっと深くする言葉を吐いたのだった。
レイシェスは、心の中で荒れ狂う怒りを喉元に抑えながら、彼を出迎える。
既に、詳細な報告は入っていた。
何故、ウィニーが大怪我を負ったのか。
この男の不始末の、身代わりになったのである。
何故、ウィニーがそんなことをしたのか、レイシェスには分からない。
しかし、妹は好機だからと言って、誰かを見殺しにするような人間ではない。
もし、そうであれば、ウィニーにはこれまで、多くの機会があった。
王太子を見殺しにする機会ではなく、レイシェスを陥れる機会だ。
母から、あれほど差別のある仕打ちを受けていたのだから、妬みや憎しみで性格が歪んでもおかしくなかった。
レイシェスを見捨て、自分が次期女公爵に座る機会を手に入れることだって、可能性としてはあった妹だが、そんなことは思いつきもしなかったに違いない。
王太子の場合も、同じだったのだろう。
頭で画策を巡らすよりも、きっとウィニーは飛び込んで行ったのだ。
「この度の援軍、誠にありがとうございました」
挨拶を終えるなり、レイシェスは過去形で物事を語った。
さっさと帰れと、暗黙に伝えたのである。
彼女は、ウィニーが帰ってきたら、ゆっくり静養をさせるつもりだった。
この問題児を、妹は己の怪我だけでおさめてくれたのだ。
十分、ねぎらわれるべきだろう。
おまけに、王都に対して王太子を命を賭けて守ったという、貸しまで作ってくれた。
この男が貸しと思わなくとも、イスト(中央)がそう思ってくれればいいのだ。
そんな大働きをした妹の静養の邪魔を、これ以上王太子にされてはたまらないと考えたのである。
王太子は、わずかの疲れもにじませることなく、開いた公爵邸の扉の境から、出迎えのレイシェスを見ている。
その黒髪をわずかに傾け、その灰緑の目をわずかに細め、彼は言った。
「お前の妹は……何という名だ?」
その瞬間の、レイシェスの怒りは筆舌に尽くしがたい。
あれほど執着したかのように見せ、側室に引き寄せようとしたにも関わらず、彼はウィニーの名前さえ知らなかったのだ。
妹は、この男のために、命さえ賭ける覚悟で前線に向かったと言うのに、だ。
王太子が、これまでウィニーにしてきたことは、名もない虫けらにしてきたことと、何ら大差がなかったのである。
レイシェスは、自分の身体からロアアールの冷たい朝靄が、立ち上るのではないかと思った。
震えそうになる唇を、不自然なほど笑みで固め、吊り上がりそうになる目を無理矢理に視線を下げて抑えつける。
「もはや二度とお会いすることはない妹の名など殿下には無用のものにございましょう」
自分でも、驚くほどの棒読みだった。
社交辞令の音階さえ、忘れてしまったかと感じたほど。
なのに。
王太子は、その口元に笑みを浮かべたのだ。
「あの娘に、面白いものをくれてやろうと言うのだ。ラットオージェン公爵の妹になる、あの娘に、な」
彼の顔に、喜びに似た色が映った気がした。
優しさも感じない、自分勝手なものばかりが詰め込まれた笑み。
彼の言い様を聞いていると、まるでウィニーが怪我などしていないかのように感じる。
「妹は、何も欲しがらないでしょう」
「勘違いをするな。ラットオージェン公爵の妹として、受け取らなければならないと言っているのだ」
レイシェスの拒否は、頭ごなしに叩き割られた。
侯爵家の血筋として、王家から何かもらえと言っているのだ。
決して覆すことの出来ない上下関係が、彼女に悔しさをにじませる。
レイシェスが、王によって新しい公爵に任命されるように、ウィニーもまた、その上下関係の呪縛から逃れることは出来ない。
「妹のことなど、どうぞお忘れ下さい」
手のひらに、自分の爪が強く食い込むのさえ感じられないまま、レイシェスは絞り出すように言った。
まだ、自分が嬲られる方が、百倍マシだと思ったのだ。
昔の彼女は、弱虫だった。
母に逆らえず、ウィニーにとっていい姉であることは出来なかった。
でも、今は違う。
今ならば、昔よりもう少しはマシに、妹の助けになることが出来るはずだ。
それが、たとえ王太子の前では、小さな抵抗であったとしても。
そんな抵抗を前に、彼は軽く虚空を見上げた。
何かを思い出すかのように。
何か──いや、誰かを。
「ああ」
肯定の意味ではなく、ほんのわずかに感嘆のこもった音の後。
「ああ……それは、無理な相談だな」
王太子は、レイシェスの手のひらの爪跡を、もっと深くする言葉を吐いたのだった。