南の海を愛する姉妹の四重奏
レイシェスは、暗い自室に引きこもって、黙々と仕事をしていた。
もはや、妹に対して打てる手はない。
彼女は、軍を味方につけて王都へと向かってしまったのだ。
後はもう、どうひっくり返すにしても、一度妹が戻ってきてからの話となる。
皮肉なことに、レイシェスはあの男に対して願わなければならなかった。
ウィニーを拒絶して欲しい、と。
彼にとって、より有益なのはレイシェスの方だ。
公爵の夫になり、次期公爵の父になることが出来れば、ロアアールを乗っ取ることも可能だろう。
勿論、彼女がそんなことをさせるつもりはない。
しかし、イスト(中央)の思惑からすれば、それがベストの選択のはずだ。
だから。
無力な小娘のように、今のレイシェスは祈るしか出来ない。
あの男が、自分を選ぶように、と。
※
そして──ウィニーは帰って来た。
「ただいま、戻りました」
玄関に立った妹は、軍服姿だった。
どんな格好で出て行ったかを知らなかったレイシェスは、その姿に驚き、そして悲しく思った。
自分の一生を賭けて、ウィニーは都に戦いに行っていたのだ。
どんな言葉よりも雄弁なその様子に、レイシェスは妹の身をかき抱いた。
「おかえりなさい」
こんなにも彼女が愛しく、たくましく見えたことはない。
その顔には、後ろめたさもなく恥もなく、晴れやかに笑顔さえ浮かんでいたのだから。
立派に戦いきった顔をされて、どうしてレイシェスがウィニーに泥を塗りつけられようか。
どんな現実が訪れようとも、彼女はそれを受け入れるしかないではないか。
レイシェスの執務室で、お茶もないまま二人きりで向かい合って座ると、ようやく妹の話が始まる。
「あのね、姉さん……」
ウィニーは、膝の上の手を落ち着かなく少しさまよわせながら、もじもじと身じろいだ。
レイシェスは、ただ黙って彼女を見ていた。
「あのね……私、──と結婚することにしたの」
少しだけ、頬を赤くさせた妹の言葉の一部が、よく聞き取れなかった。
誰のことか分かってはいるのだが、聞き慣れなかったのだ。
「ギディオン・イスト・バウエニス……のことかしら?」
レイシェスは、正確に、そして単調にその名を正式に口にした。
呼び慣れない、そして聞き慣れないその名。
またの名を──元王太子殿下。
王には専用の名があるし、王太子には『イスト』とは入らない。
イストと名が入る王族は、臣下に下るものにつけられるものだ。
「そう……私、ギディオンと結婚することにしました。彼を、愛してます」
「嘘はいいのよ」
妹に罪悪感はなくとも、レイシェスにはある。
重い荷物を、彼女に引き受けさせたのだという事実は、今後一生消えることはないだろう。
そんなレイシェスの言葉に、ウィニーは少し困った笑みを浮かべるのだ。
「うん、姉さん……半分は嘘」
そして、奇妙な返事をした。
半分とは、何なのか。
この場合、丸ごと全部嘘が正しい答えのはずだ。
レイシェスは、怪訝さを隠しきれないまま、妹を見つめる。
「もう半分は……騙されてみたくなったの」
彼女は、照れくさそうに笑った。
十五歳のままのように見えて、少し大人びた顔。
人を疑ってかかるような妹ではないが、あの王太子にはこれまでさんざんな目に遭わされてきたはずだ。
そんな男に騙されてみたいなんて、本来であれば口が裂けても言わないだろう。
都で一体、何があったのか。
「ギディオンは……私に指一本しか触れなかったよ」
ウィニーは、肩越しに何かを見る動きをした。
そこにあるのはソファの背か、あるいは彼女自身の背しかないというのに。
「私が、既成事実を作ろうと持ち掛けても……何もしなかった」
でも。
妹は、まっすぐにレイシェスを射抜く目を向ける。
「でも……ギディオンは私と結婚すると言ったし、誓約書も書いてくれた。だから、ごめんね姉さん。彼は、私がもらうわ」
滑稽な、話だ。
妹を前に、彼女はそう思った。
これではまるで、姉妹であの男の寵を争っているかのようではないか、と。
さぞや、あの男──ギディオンも満足なことだろう。
あれほど嫌われていた姉妹に、奪い合われているのだから。
しかも。
彼は、妹の心にピンを留めたのだ。
色恋沙汰の経験の薄いウィニーは、そのピンを気にしている。
ピンを刺された痛みや、ぷくりと溢れる血の玉が描くものが何であるか、理解しないままに、それでも見つめようとしている。
あんな男に騙されたところで、益など何もないだろうに。
だが、恋心のかけらだけで、妹がこれほどまでに晴れやかな表情をしているのは、異和感もある。
彼と、一体何の話をしたのか。
共に、ロアアールを乗っ取ろうなんて話ではないはずだ。
そんなものに、ウィニーが乗るはずなどないのだから。
「姉さん……彼は」
妹の言葉の側に、いつの間にかあの男がいる。
遠く遠く、ロアアールとイストよりも遠かったはずの二人の距離が、これほどまでに短時間で近づくことなど、本来ならばありはしない。
ウィニーの瞳と言葉の中には、夢があった。
希望があった。
明日があった。
ギディオンという男と、無縁なはずのそれらを、全部連れて帰ってきたウィニーは、レイシェスを驚かす言葉を告げた。
「姉さん……彼は、隣国への侵攻軍を作りに、ロアアールへ来るのよ」
ロアアールの、いや、この国のこれまでの常識を、ひっくり返す言葉だった。
もはや、妹に対して打てる手はない。
彼女は、軍を味方につけて王都へと向かってしまったのだ。
後はもう、どうひっくり返すにしても、一度妹が戻ってきてからの話となる。
皮肉なことに、レイシェスはあの男に対して願わなければならなかった。
ウィニーを拒絶して欲しい、と。
彼にとって、より有益なのはレイシェスの方だ。
公爵の夫になり、次期公爵の父になることが出来れば、ロアアールを乗っ取ることも可能だろう。
勿論、彼女がそんなことをさせるつもりはない。
しかし、イスト(中央)の思惑からすれば、それがベストの選択のはずだ。
だから。
無力な小娘のように、今のレイシェスは祈るしか出来ない。
あの男が、自分を選ぶように、と。
※
そして──ウィニーは帰って来た。
「ただいま、戻りました」
玄関に立った妹は、軍服姿だった。
どんな格好で出て行ったかを知らなかったレイシェスは、その姿に驚き、そして悲しく思った。
自分の一生を賭けて、ウィニーは都に戦いに行っていたのだ。
どんな言葉よりも雄弁なその様子に、レイシェスは妹の身をかき抱いた。
「おかえりなさい」
こんなにも彼女が愛しく、たくましく見えたことはない。
その顔には、後ろめたさもなく恥もなく、晴れやかに笑顔さえ浮かんでいたのだから。
立派に戦いきった顔をされて、どうしてレイシェスがウィニーに泥を塗りつけられようか。
どんな現実が訪れようとも、彼女はそれを受け入れるしかないではないか。
レイシェスの執務室で、お茶もないまま二人きりで向かい合って座ると、ようやく妹の話が始まる。
「あのね、姉さん……」
ウィニーは、膝の上の手を落ち着かなく少しさまよわせながら、もじもじと身じろいだ。
レイシェスは、ただ黙って彼女を見ていた。
「あのね……私、──と結婚することにしたの」
少しだけ、頬を赤くさせた妹の言葉の一部が、よく聞き取れなかった。
誰のことか分かってはいるのだが、聞き慣れなかったのだ。
「ギディオン・イスト・バウエニス……のことかしら?」
レイシェスは、正確に、そして単調にその名を正式に口にした。
呼び慣れない、そして聞き慣れないその名。
またの名を──元王太子殿下。
王には専用の名があるし、王太子には『イスト』とは入らない。
イストと名が入る王族は、臣下に下るものにつけられるものだ。
「そう……私、ギディオンと結婚することにしました。彼を、愛してます」
「嘘はいいのよ」
妹に罪悪感はなくとも、レイシェスにはある。
重い荷物を、彼女に引き受けさせたのだという事実は、今後一生消えることはないだろう。
そんなレイシェスの言葉に、ウィニーは少し困った笑みを浮かべるのだ。
「うん、姉さん……半分は嘘」
そして、奇妙な返事をした。
半分とは、何なのか。
この場合、丸ごと全部嘘が正しい答えのはずだ。
レイシェスは、怪訝さを隠しきれないまま、妹を見つめる。
「もう半分は……騙されてみたくなったの」
彼女は、照れくさそうに笑った。
十五歳のままのように見えて、少し大人びた顔。
人を疑ってかかるような妹ではないが、あの王太子にはこれまでさんざんな目に遭わされてきたはずだ。
そんな男に騙されてみたいなんて、本来であれば口が裂けても言わないだろう。
都で一体、何があったのか。
「ギディオンは……私に指一本しか触れなかったよ」
ウィニーは、肩越しに何かを見る動きをした。
そこにあるのはソファの背か、あるいは彼女自身の背しかないというのに。
「私が、既成事実を作ろうと持ち掛けても……何もしなかった」
でも。
妹は、まっすぐにレイシェスを射抜く目を向ける。
「でも……ギディオンは私と結婚すると言ったし、誓約書も書いてくれた。だから、ごめんね姉さん。彼は、私がもらうわ」
滑稽な、話だ。
妹を前に、彼女はそう思った。
これではまるで、姉妹であの男の寵を争っているかのようではないか、と。
さぞや、あの男──ギディオンも満足なことだろう。
あれほど嫌われていた姉妹に、奪い合われているのだから。
しかも。
彼は、妹の心にピンを留めたのだ。
色恋沙汰の経験の薄いウィニーは、そのピンを気にしている。
ピンを刺された痛みや、ぷくりと溢れる血の玉が描くものが何であるか、理解しないままに、それでも見つめようとしている。
あんな男に騙されたところで、益など何もないだろうに。
だが、恋心のかけらだけで、妹がこれほどまでに晴れやかな表情をしているのは、異和感もある。
彼と、一体何の話をしたのか。
共に、ロアアールを乗っ取ろうなんて話ではないはずだ。
そんなものに、ウィニーが乗るはずなどないのだから。
「姉さん……彼は」
妹の言葉の側に、いつの間にかあの男がいる。
遠く遠く、ロアアールとイストよりも遠かったはずの二人の距離が、これほどまでに短時間で近づくことなど、本来ならばありはしない。
ウィニーの瞳と言葉の中には、夢があった。
希望があった。
明日があった。
ギディオンという男と、無縁なはずのそれらを、全部連れて帰ってきたウィニーは、レイシェスを驚かす言葉を告げた。
「姉さん……彼は、隣国への侵攻軍を作りに、ロアアールへ来るのよ」
ロアアールの、いや、この国のこれまでの常識を、ひっくり返す言葉だった。