南の海を愛する姉妹の四重奏
細くくびれた回廊の向こう側。
いつの時代も、ロアアールを苦しめた異国の世界が、その向こう側にある。
ウィニーは、それを当たり前だと思っていた。
それが、この地の宿命なのだと。
だが。
彼は、違った。
「国境を越えて、攻めに行く」
素肌の背中の後ろから、そう告げられた。
ロアアールに来て、実際に防衛軍を見て、隣国という存在を肌で感じた彼は、あっさり国境という線を越えようとしたのである。
最初は、己の身で越えようとした。
愚かで馬鹿馬鹿しい行為。
しかし、彼はその愚かな行為を、違う形に変えたのだ。
隣国を侵攻して領地を拡大する、と。
そのために、彼は王太子を降りたのだ。
王太子という地位や肩書のままでは、思うように前線に出ることが出来ないからだろう。
そして。
彼の思想や行動は、父である王の承認を得た。
どうせ攻められるのならば、逆に攻めて領地を取ってしまえばいいのだ。
そうすれば、防衛の戦線は変わって行く。
ロアアールに国境線があるから、ロアアールが戦地となる。
しかし、ロアアールの向こう側に別の領地があれば、そうではなくなる。
ウィニーの姉を、父を、先祖を苦しめていた世界は、がらりと変わってしまうのだ。
彼は、勝ち得た領地の最前線の主になるべく、北西の地に来るというのである。
「だから、今は『生きるのに忙しい』から、お前を抱く暇がない」
ウィニーの背中の傷に触れながら話をした後、彼はそう言った。
思わず、振り返っていた。
自分が、肌着で胸を押さえているあられもない姿だと、分かっていながらも、彼を見ずにはいられなかったのだ。
同じように、見えた。
これまでウィニーが知る彼と、何ら変わらないように見えた。
黒髪も、冷やかな灰緑の目も、皮肉な口元も、何もかも同じに。
だが。
「ギディオン、だ」
彼は、言った。
「私は……いや、俺は……ギディオン・イスト・バウエニスだ」
名前は、名前に過ぎない。
誰にでも名があるのと同様に、彼にも個人を指し示す符号があるだけ。
ドクン。
なのに、ウィニーの胸を打った。
王太子という名の分厚い殻が、バリバリと音をたてて破れて行く。
中から現れた男は──違う名前を持っていた。
彼はいま。
自分自身に、名前をつけた。
それは、『どうでもいい』ことではなかったのだ。
名前も知らない『王太子』という化け物に、これまで自分が対峙していたのだと気づかされる。
姿は、同じだ。
だが、違う名の男。
その男と、ウィニーはいま、初めて向かい合った気がした。
脳裏に巡りゆく、これまでの不幸な記憶。
大嫌いの記憶。
それらは、簡単に水に流してゆけるものではない。
信用できるわけでもない。
けれども、彼は己の名の元に、隣国を攻めると言った。
それもまた、『どうでもいい』ことではない。
ウィニーは、目を伏せた。
いまの自分の姿も、彼と結婚せねばならないという事実も、この一瞬だけは彼女の脳裏から消え失せ、ただこの男──ギディオンの心を、ただ一心に考えたのだ。
「それは、『面白い』から、ですか?」
この世界が、退屈でつまらないものだと思っているギディオンの、壮大でハタ迷惑な暇つぶし。
ウィニーは、彼の言葉をそう位置づけた。
「そうだ」
返答には、一瞬の間も、一分の否定もない。
「私は、あなたに兵の一人一人を慈しむ心があると思いませんが」
「そうだ」
敬意の薄い、『あなた』という表現にも何の反応もせず、やはりギディオンは即答する。
だが、今度はその答えだけでは終わりではなかった。
「だから……お前がいるのだろう?」、と。
え?
思わず、ウィニーはきょとんとして、彼を見た。
そこに、いきなり自分が現れるとは思ってもみなかったからだ。
「お前は、使える。お前のその、頭に馬鹿のつくロアアールへの愛とやらは、俺の役に立つ」
とても、褒められているとは思えない言葉だった。
だが、存在価値がある人間だと、この男が認めて口に出したことの方が、ウィニーにとっては驚きである。
「面白いことに、お前の愛とやらは……使い捨てではないようだ」
ギディオンは、薄く笑った。
これまで多くの感情を、使い捨てて来た男にとって、それは珍しいものなのだろうか。
ウィニーは、彼の心を見ようとした。
光を通さない濁った沼の水の底に、何が棲んでいるのかを知ろうとしたのだ。
「婚姻の誓約書を書いてやろう……お前が、俺に名乗れば、な」
沼の水底から現れた男の声は、甘くもなく優しくもなく。
危うい強さと、冷やかな痛みを引き連れて、彼女に手を差し出すのだ。
ウィニーの答えは、最初から決まっていた。
ただ、この手に応えることは、最初に考えていたこととは違う。
彼女は、ギディオンの暴走を、妻となって命を賭けて制御しようと思っていた。
しかし、この手は違う。
彼が求めているのは、『共謀者』だ。
共に、異国への侵略を策謀するための、相棒である。
だから、彼はウィニーの身体を、抱く必要がない。
彼女のことを、ギディオンは力で屈服させることを──やめたのだ。
何が変わったのか、ここまできてようやく分かった。
ギディオンは、初めてウィニーを下に見なくなったのである。
王太子という地位を降り、ついにその高い段差の上から、降りてきたのだ。
同じ地に足をつけて、彼は手を差し出しているのである。
「ウィ……」
呟きかけて、彼女ははっと唇に力を込めた。
キッと、半ば睨むほど強い視線を、ギディオンに向ける。
「ウィニー・ロアアール・ラットオージェンです」
その強い眼差しを、彼は表情ひとつ変えずに見ている。
そして。
ギディオンの唇が。
動いた。
「ウィニー、か」
生まれて初めて、彼に名前をなぞられた。
いつの時代も、ロアアールを苦しめた異国の世界が、その向こう側にある。
ウィニーは、それを当たり前だと思っていた。
それが、この地の宿命なのだと。
だが。
彼は、違った。
「国境を越えて、攻めに行く」
素肌の背中の後ろから、そう告げられた。
ロアアールに来て、実際に防衛軍を見て、隣国という存在を肌で感じた彼は、あっさり国境という線を越えようとしたのである。
最初は、己の身で越えようとした。
愚かで馬鹿馬鹿しい行為。
しかし、彼はその愚かな行為を、違う形に変えたのだ。
隣国を侵攻して領地を拡大する、と。
そのために、彼は王太子を降りたのだ。
王太子という地位や肩書のままでは、思うように前線に出ることが出来ないからだろう。
そして。
彼の思想や行動は、父である王の承認を得た。
どうせ攻められるのならば、逆に攻めて領地を取ってしまえばいいのだ。
そうすれば、防衛の戦線は変わって行く。
ロアアールに国境線があるから、ロアアールが戦地となる。
しかし、ロアアールの向こう側に別の領地があれば、そうではなくなる。
ウィニーの姉を、父を、先祖を苦しめていた世界は、がらりと変わってしまうのだ。
彼は、勝ち得た領地の最前線の主になるべく、北西の地に来るというのである。
「だから、今は『生きるのに忙しい』から、お前を抱く暇がない」
ウィニーの背中の傷に触れながら話をした後、彼はそう言った。
思わず、振り返っていた。
自分が、肌着で胸を押さえているあられもない姿だと、分かっていながらも、彼を見ずにはいられなかったのだ。
同じように、見えた。
これまでウィニーが知る彼と、何ら変わらないように見えた。
黒髪も、冷やかな灰緑の目も、皮肉な口元も、何もかも同じに。
だが。
「ギディオン、だ」
彼は、言った。
「私は……いや、俺は……ギディオン・イスト・バウエニスだ」
名前は、名前に過ぎない。
誰にでも名があるのと同様に、彼にも個人を指し示す符号があるだけ。
ドクン。
なのに、ウィニーの胸を打った。
王太子という名の分厚い殻が、バリバリと音をたてて破れて行く。
中から現れた男は──違う名前を持っていた。
彼はいま。
自分自身に、名前をつけた。
それは、『どうでもいい』ことではなかったのだ。
名前も知らない『王太子』という化け物に、これまで自分が対峙していたのだと気づかされる。
姿は、同じだ。
だが、違う名の男。
その男と、ウィニーはいま、初めて向かい合った気がした。
脳裏に巡りゆく、これまでの不幸な記憶。
大嫌いの記憶。
それらは、簡単に水に流してゆけるものではない。
信用できるわけでもない。
けれども、彼は己の名の元に、隣国を攻めると言った。
それもまた、『どうでもいい』ことではない。
ウィニーは、目を伏せた。
いまの自分の姿も、彼と結婚せねばならないという事実も、この一瞬だけは彼女の脳裏から消え失せ、ただこの男──ギディオンの心を、ただ一心に考えたのだ。
「それは、『面白い』から、ですか?」
この世界が、退屈でつまらないものだと思っているギディオンの、壮大でハタ迷惑な暇つぶし。
ウィニーは、彼の言葉をそう位置づけた。
「そうだ」
返答には、一瞬の間も、一分の否定もない。
「私は、あなたに兵の一人一人を慈しむ心があると思いませんが」
「そうだ」
敬意の薄い、『あなた』という表現にも何の反応もせず、やはりギディオンは即答する。
だが、今度はその答えだけでは終わりではなかった。
「だから……お前がいるのだろう?」、と。
え?
思わず、ウィニーはきょとんとして、彼を見た。
そこに、いきなり自分が現れるとは思ってもみなかったからだ。
「お前は、使える。お前のその、頭に馬鹿のつくロアアールへの愛とやらは、俺の役に立つ」
とても、褒められているとは思えない言葉だった。
だが、存在価値がある人間だと、この男が認めて口に出したことの方が、ウィニーにとっては驚きである。
「面白いことに、お前の愛とやらは……使い捨てではないようだ」
ギディオンは、薄く笑った。
これまで多くの感情を、使い捨てて来た男にとって、それは珍しいものなのだろうか。
ウィニーは、彼の心を見ようとした。
光を通さない濁った沼の水の底に、何が棲んでいるのかを知ろうとしたのだ。
「婚姻の誓約書を書いてやろう……お前が、俺に名乗れば、な」
沼の水底から現れた男の声は、甘くもなく優しくもなく。
危うい強さと、冷やかな痛みを引き連れて、彼女に手を差し出すのだ。
ウィニーの答えは、最初から決まっていた。
ただ、この手に応えることは、最初に考えていたこととは違う。
彼女は、ギディオンの暴走を、妻となって命を賭けて制御しようと思っていた。
しかし、この手は違う。
彼が求めているのは、『共謀者』だ。
共に、異国への侵略を策謀するための、相棒である。
だから、彼はウィニーの身体を、抱く必要がない。
彼女のことを、ギディオンは力で屈服させることを──やめたのだ。
何が変わったのか、ここまできてようやく分かった。
ギディオンは、初めてウィニーを下に見なくなったのである。
王太子という地位を降り、ついにその高い段差の上から、降りてきたのだ。
同じ地に足をつけて、彼は手を差し出しているのである。
「ウィ……」
呟きかけて、彼女ははっと唇に力を込めた。
キッと、半ば睨むほど強い視線を、ギディオンに向ける。
「ウィニー・ロアアール・ラットオージェンです」
その強い眼差しを、彼は表情ひとつ変えずに見ている。
そして。
ギディオンの唇が。
動いた。
「ウィニー、か」
生まれて初めて、彼に名前をなぞられた。