ETERNAL CHILDREN 2 ~静かな夜明け~
食後のお茶を一口飲んでから、できるだけ平静を装ってシイナは告げた。
「ユカの、クローニングを――?」
「ええ。そうなのよ。提案が出たの。あなたの意見を聞きたいわ。どうかしら」
居心地の悪さを、シイナは感じていた。
これは決定ではない。
提案を、自分は伝えているだけなのだ。
何度も自分自身に言い聞かせてきた。
けれど、今、フジオミを前にして自分がそれを言うのは、彼を裏切っているような罪悪感に囚われる。
(私は悪くないわ。何も、悪くない)
シイナはフジオミの表情を真っすぐに見つめることはできなかった。
怒りの声をすぐに聞くことをどこか確信していた。
ところが、いつまで待っても怒声はなかった。
シイナが視線を向けると、予想に反して、フジオミは浅く笑っていた。
シイナは、なぜここでフジオミが笑うのか理解できなかった。
「君が、それを望むなら」
こともなげに言うフジオミ。
「――私のことなんか、どうでもいいのよ。あなたはどうしたいの!?」
穏やかな、笑みを絶やさないその表情からは、なんの感情も読み取れない。
彼が何を考えているのか、シイナにはわからなかった。
これまでだって、これからだって、きっと自分にはフジオミのことなどわからないのだ。
それを今思い知らされているように感じる。
「僕がどうしたいか――」
「そうよ!!」
我知らず、語気が荒くなる。
「それを、君が聞くのか?」
フジオミの表情が変わった。
「!!」
シイナがそこに見たのは、唇だけを上げて笑うフジオミの、以前のようにどこかなげやりな笑みだった。
「言ったはずだよ。君が望むならどんなことでも叶えようと。君の幸せが、僕の望みだ。それ以外もう、僕には何もない。だから、君がそうして幸せになるのなら、したいことをすればいい」
そう言うと、フジオミはゆっくり椅子から立ち上がり、飲みかけのお茶もそのままにシイナの脇を通り過ぎる。
何かを、自分は間違えたのだ。
だが、何を――?
フジオミの表情が、シイナを混乱させる。
一方的にシイナを扱う、怒りの対象でしかなかったあのフジオミの表情だ。
以前のようなフジオミに、戻ってしまうのか。
それだけは嫌だった。
震える拳を脚に押しつけて、シイナも椅子から立ち上がる。
「やめて、あなたはずるいわ。私を待たないで。結局、あなたは全ての責任を私に押しつけるのよ。あなたには力がある。望んで手に入らないものはないはずでしょう!?」
シイナが振り返るのと同時に、フジオミも振り返った。
「僕にどんな力があると、君は思うんだ? 僕は無力な、ただの男にすぎない。どんなに望んでも、手に入らないものが、僕にだってある」
「そんな詭弁はもうたくさん!! あなたが言ってるのは、私のことなんでしょう!? 心が欲しいなら、あげるわ。あなたが望めば、従うわ。抱きたいのなら、そうすればいい。好きにすればいいのよ!!」
「本当に?」
答えを待たずに、フジオミは動いた。
両手がシイナの頬を捕らえて引き寄せる。
唇が、重なった。
「――」
反射的に身を引こうとしたシイナを、彼は優しくとどめた。
歯列を割り、舌を差し入れ口内を探る。
それは、優しい優しいくちづけだった。
乱暴なところも強引なところも何一つないくちづけを受けているというのに、シイナは混乱した。
高熱に浮かされている時に交わしたくちづけには、心地よささえ感じたのに、今は微塵もそんなことを感じない。
できることなら逃げだしたかった。
けれど、身体が動かない。
鼓動が、痛いほどに胸を打つ。
頬を捕らえていた手が、愛撫するように優しく首筋をなぞったとき、シイナは背筋を駆け上るいいようもない感覚に恐怖した。
「いやっ!!」
無我夢中で、シイナはフジオミを突き飛ばした。
あとずさった身体が自分が座っていた椅子の背にぶつかって、シイナはようやく自分が震えていることに気づいた。
フジオミの顔から、笑みは消えていた。
ただじっと、何の感情も表わさずにシイナを見つめていた。
やがて、抑揚のない低い声が漏れる。
「――僕は少なくとも君よりは正確に、自分の望みを把握しているよ。
シイナ、君は自分のことさえ何一つわかっていない」
「そんなこと!!」
「違うと言えるのか? 僕に好きにすればいいといいながら、そうすれば僕を拒む。従うという言葉の意味さえ、君はわかっていないじゃないか。
僕が欲しいのは隷属じゃない。
君だよ。身体だけでなく、心ごと全て、そのままの君が欲しいんだ。どちらか一つだなんて、もう欲しくない」
「……」
強いその言葉に、シイナは返す言葉を探せなかった。
そんな彼女を、フジオミはじっと見つめていた。
やがて、吐息が一つ洩れる。
「――すまない。無理強いをしたね。君を傷つけたくないんだ。それをわかってほしい」
あくまでもフジオミは優しく、全ての罪を負うかのように敬虔に、シイナの手を取り、くちづけた。
「愛してる。君しかいないんだ。いくらでも待つから、時間をかけて、少しずつでいい。
僕を愛してくれ――」
吐息が、指に熱かった。
身体の震えを止められない。
「…やめて…」
呻くように、やっとシイナは声を絞りだした。
苦しかった。
腹立たしさで、胸がつまるほどだ。
「あなただって、私のことなんか、何一つわかっていないわ。『愛している』ですって!? あなた大馬鹿よ。私には誰も愛せないのに、愛情なんて、私の中にはどこにもないのに、そんな女を愛するなんて!! 決して持てない感情を、私に求めるのはやめて!!」
フジオミは、勝手なことばかり言う。
愛してくれと、無理なことを言う。
優しさに応えたいのに、それではだめだと言う。
どうすれば、愛していると言うのか。
どうすれば、それを愛と呼ぶのか。
そんな感情は、自分は知らない。
それでも愛してくれと言うのか。
「私にはわからない――あなたは残酷だわ。あなたにしかわからないものを、私に求めるなんて…」
「違う。それは誰の心にもある感情だ。生殖能力とともに消えたわけでもない。僕等はただ、長い年月の間にそれを忘れてしまっただけだ。義務を強いて、その心の顕れを伝えなかっただけなんだ」
「じゃあ、どうすればわかるの? あなたならわかるはずよ。どうすれば、愛しているの?」
「愛するという感情は、聴いて理解するものじゃないよ。それは、人の心に沸き上がるものだから」
「なら、あなたはどうして私が愛してないなんて思うの? 私の思いが愛じゃないなんて、どうしてわかるの!?」
叫ぶように言ったシイナに、虚をつかれたように彼は顔を歪めた。
「――それは、君自身が一番わかっているはずだ。少なくとも、愛している男とのくちづけを、拒む女性はいないよ。君は全てを許すと言いながら、最後の最後でいつも僕を拒絶している。僕には、それがよくわかっている」
「――」
返す言葉はなかった。
フジオミの言葉は確かに事実だ。
自分にはフジオミを受け入れられない。
愛しているとか、いないとか、そういう次元でのことではない。
それ自体がわからないのだから。
だからこそ、愛する振りもできない。
拒みきることもできない。
ただ従順にフジオミを受け入れるには、彼女はあまりにも傷つきすぎた。
そして、臆病すぎた。
わからぬものを、わかっている振りをし続けて生きていくことなどできない。
もはや自分は変われないのだ。
変わろうとすれば、それは、自分を支えるものをさらに歪めることになる。
彼の変化とともに自分の中で根底から何かが変わっていくことが、シイナには認められない。
ただどうしようもなく恐ろしいのだ。
フジオミには、それがわからない。
男と女だからなのか。
それとも、もっと別の根本的なものの相違なのか。
ただ、シイナには、それが決して互いに理解しえるものではないのだと確信できた。
「僕の想いは、君にとって有害なだけかい?」
苦しげなフジオミが、さらなる痛みをシイナに呼び起こす。
今の彼を、苦しめたいわけではなかった。
だが、どんな返答をしても、傷つけているような気がする。
「違うわ、あなたが悪いわけじゃない。
私が、わかれないだけよ……」
愛するということ。
それは一体どういうものなのか。
大事だと思えれば、それは愛なのか。
一体、愛という感情は生命の誕生のどの過程で人に宿るものなのか。
もともとあるのか、そうでないのか。
何一つ、自分にはわからない。
所詮自分はできそこないなのだ。
今まではそのことに怒りと屈辱しかなかった。
でも、今は違う。
哀しくて、苦しくて、たまらない。
フジオミと、同じものであればよかったのに。
今、シイナは心からそう思った。
そうすれば、こんな苦しみもなかっただろうに。
もっとフジオミを傷つけずに、理解することもできただろうに。
それが、やりきれなかった。