かぐや皇子は地球で十五歳。
 教室へ向かうだろうと思っていたイカスミは階段ではなく、その先にある体育館へと繋がる外通路へ駆けていく。外通路を外れ中庭へ、中庭から体育館裏口へ。灯りも人気もない暗闇へと誘われ、また恐怖心で足取りが重くなった時、体育館と隣接している屋内プールから男子生徒の呻き声がはっきりと聞き取れた。

「湯浅くん……?」

 此処にきてようやく状況を理解した。イカスミは主人の危険を私に知らせたかったのだ。現に黒猫は屋内プールの重い鉄扉の前で「にゃーにゃー」と私を急かしている。惧れ迷ってなどいられない。飛びかかるように乱暴に扉を横へ引いた。
『ガチャンッ』
 鍵が掛かっている。
 呻き声は確かにこの中から聞こえたのに。晃を残したまま水泳部が気付かず施錠してしまったのだろうか。だが先程の声は明らかに修羅場を想像させる緊迫感。気付かない訳がない。ならば晃は密室の中をどうやって…。
──────闇移動。瞬間移動ができるんだ。
 ふと脳裏に浮かんだが頭を横に振り消し去った。そんなことよりも一刻も早く中へ入らなければ。屋内プールの脇道へ入り窓を覗きながら一つ一つ窓枠を引いていくが、どの窓ガラスも内側から鍵がかけられ開かない。諦めかけたその時、覗いたガラス越しに倒れる人影をみつけた。
 向かいの壁に寄りかかり足を広げぐったりと踞る男子生徒。白い制服のシャツから滴る血液が下降し、グレーのズボンを赤黒く染めプールの水を浸食していく。微動だにしない、その少年の左脇腹には刀のような黒い刃が突き刺さっている。
 今すぐ助けなければ死んでしまう。あれほどの大量の血液を流しているのだ、最早絶望的とも思われたが、私を行動させるきっかけには充分な理由となった。
 周りを見渡し目に飛び込んできたのは生け垣の縁にゴロゴロと転がった煉瓦石。怪我人を救出するのだ、ガラスの一枚二枚お咎めはないだろう。
『ガシャンッ』
 思いきり投げ付けた煉瓦石はビスケットを割るように易々とガラスを打ち割った。頭一つ分の虚空に腕を通し鍵を開け、窓を横に滑らせる。屋内プールの照明は消えているが、プール内の非常灯が明るく水面下を照らし、屋内全体へ微かに光源を与えていた。一メートルほどの段差を飛び降り、晃目掛けプールサイドをがむしゃらに駆け走る。飛び込み台を通り抜ける途中、水面に沈む「ナニカ」を視界に捉えたが、その正体の認識を脳が拒否した。顔が見える距離まで近付いたがやはり晃の意識はない。駆け寄ったその先で携帯電話を持ち合わせていない自分を酷く恨んだ。思えば、怪我をした晃をみつけた時点で職員室へ駆け込むべきだったのだ。後悔しても遅い、苛立つ胸を押さえながら引き返そうと身体を反転させた。
(っえ……。)
 見えない。何も見えない。薄暗く辺りを照らしていた非常灯が闇に掻き消され、水面を揺れていた光の欠片一粒さえも消え失せている。
(ひぁ…!)
 恐怖が声になる前に冷やかな厳つい手のひらに口を塞がれた。硬いプールサイドの床に全身を叩き付けられ激痛が神経を伝う。

『ひぃ…ひぃ…!簡単に餌が釣れたぞ……!』

 腹に響く重低な音質。覆い被さる人影から香る獣のような悪臭。
 後れ馳せながら、私はまたこの時気付いたのだ。晃が刺されているということは、刺した加害者がいることを。一寸先も見えない暗闇の中で唯一形がわかる黒影が私の上で執拗に蠢き始めた。
 犯される……晃の前で。
 その間にも晃は血を流し、刻々と死へ近付いていく。

『ガチャンッ』

 失意と絶望の中で鋭くなった聴覚が扉を開ける音を拾った。私に覆い被さる男もまた感付いたのだろうか、身体にのし掛かる体重が軽減される。

「すまない、眞鍋……!遅くなった…────────うぁあ!?」
「え…?た、立川先生?」
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