明日なき狼達
 遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえて来る。

 神谷はうたた寝をしていた。

 夢の中なのか、現実の世界なのか、自分の脳味噌は判別をしてくれていない。

 神谷……

 神谷、起きろ……

 酒飲ませないのかぁ……

 女の声のようだ。

 何処と無く聞き覚えのあるしゃがれ声。

 そんな筈は無い……

 あの女がまさかこの店に……

 微かに聞こえていた声が、段々と鮮明になって来た。

「バカヤロー!あたしを無視するなんて百年早いんだよ!たく、どいつもこいつも……」

 やはり、間違い無い。

 何年、いや、何十年振りに聞くだろう……

 ぼうとしながらも、神谷は思い出し始めていた。

 身体を起こし、狭い階段を注意深く下りた。

 店の電気を点けると、

「この唐変木がぁ!昔はさんざんあたしの身体の上で腰振ってたくせに……早く開けろ!」

 と、扉が壊れるかと思う位に叩かれていた。

「判った、今開けるから静かにして……」

 扉を開けると、紛れも無く加代子が立っていた。

「遅いんだバカヤロ……」

 かなり酔っているようで、呂律も回らず、足元も定かではない。

「久し振り……」

「へん、相変わらずしけた店だこと、飲みに来てやったぞ!」

 ふらつく加代子を椅子に座らせ、取り敢えずは水を飲ませた。

「ブハァーッ、バァカ、これ水じゃねえかよ。あたしは酒を飲みに来たの、さ、け、を……ブランデーでもウイスキーでも何でもいいから、早く出して、早く!」

 神谷は何も言わず、棚からオールドパーを取り出した。

 グラスに入れようとしたが、一旦思い直した。

 どうせ明日になればこの店は……

 オールドパーを元に戻し、神谷は棚の奥からまだ封の切っていないボトルを取り出した。

 この店でこいつを飲んでくれる客はついに一人も現れなかったな……

 ペーパーナイフでキャップの封を切り、磨き上げられたグラスにその液体を注いだ。

 加代子の前にそれを差し出すと、彼女はカウンターに俯せになり、寝息を立てていた。

 神谷は苦笑いをしながら、そのグラスを自分の口元へ運んだ……。

 女の寝顔がやけに悲しげだった。
< 16 / 202 >

この作品をシェア

pagetop