your song
彼の名前は椎名 康作。薬品メーカーに務めるサラリーマン。


仕事帰りに通うので、一番最後の時間が彼の時間となった。



ピアノを触れたことがない彼へのレッスンは子どもに教える時のように、1つ1つゆっくりと進んだ。


不器用な動きで音を奏でるその指に、彼は子どものように感動した。





「やっと1小節。ハハハ気が遠くなりますね。すみません」


教室を締め駅へと向かう道、空を浮かぶ月はフィルターをかけられているかのようにぼんやりと夜空を照らし、肌に触れる空気が少し暖かくなっていることに気づかせた。


「蕾が膨らんできましたね」


彼は公園の桜の木の下で足を止め言った。


「そうですね。季節の移り変わりって早いですね」


微かに風が揺れ、桜の木を見上げる彼の髪が動いた。


「神様はどうして人間にだけ言葉を与えたんだと思いますか?」


独り言なのか、聞いているのか、口から漏れる吐息のように彼はつぶやいた。



「どうしてですかね」


「人間が一番未熟だからですよ。色鮮やかな羽もなければ、音楽のようにさえずる鳴き声もない。伝える術がないから言葉を与えられたんです。

神様が想いを伝えるために与えてくれた言葉を、僕は無駄にしていました」


蕾に優しく触れるその横顔は、とても寂しげで壊れそうだった。
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