夢の欠片
「やっべー、カレーがズボンについちまった……洗濯しても大丈夫かな?」


部屋に戻った羚弥は、制服のズボンについたカレーを見て、着替えてから食べればよかったと後悔していた。明日も着ていくのに洗って落ちなかったら最悪だ、と羚弥はその汚れをジッと見つめながら対策を考えた。


「手洗いで落ちるかな……」


思い立ったが吉日と言わんばかりに羚弥は早速着替え、ズボンを洗面所へ持っていって実践した。


「お、意外といいじゃん。さすが手洗い」


歯ブラシや石鹸などを駆使して洗うと、カレーの色は見事に完全に落ち、すっかり綺麗な制服に戻った。その制服を洗濯機に放り込み、羚弥は部屋に戻ってやることもなくベットに横たわった。


寝るにはまだ早すぎるし、何しようかと思っていた羚弥のもとに、一通のメールが届いた。ポケットから携帯を取り出して確認してみると、それは真弓からのものだった。


『由梨ちゃんが話したいことがあるんだってさ。部屋開けといて』


別に鍵なんかしてないのに、と羚弥が『了解』と打って返信すると、すぐに部屋の外から由梨の声が聞こえてきた。


「入るよー」


少し親しみがあるかのような言い方で部屋に入ってきた由梨に、羚弥はおう、と返事をした。


由梨は羚弥がいるベットの前に座ると、一度深呼吸をした。そして、ジッと羚弥を見ると、あっあっ、と喉の調子を確認した。


その様子から、これから話す内容は相当決心がいるものなのかな、と想像していた羚弥は、黙って静かに待機した。


「謝りにきたの」


由梨がそう発したのは、部屋に入ってから十分も経過した後だった。


羚弥はその言葉がぴんと来なかったので、あまり上手く反応できずに視線を宙に動かした。


「ごめんなさい、避けてました。助けてもらったのに信用できなくて……」


避けてたんだ、とようやく羚弥は口を開いた。


「気にしなくていいよ。俺、人見知り程度にしか感じてなかったからさ」


歯ブラシと箸を持って由梨の部屋を訪ねたことを思い返しながら、羚弥はそう言って笑った。


ただ、由梨の深刻そうな表情が全く変わらなかったので、羚弥は何か理由があるのかい、とできるだけ強い口調にならないように注意して尋ねた。


「……私ね、男性が怖いんだ」


由梨が下を向きながら、ポツポツと話し始めた。


「とある事情で家を出てからホームレスになったんだけど、上手く食べ物を見つけることができなくて、寝ることもできなくて、とりあえず生きられればいいやって感じの状態になったんだ」


羚弥は自分のことのように聞いていた。


「それでね、そんな時に声をかけてきた男性がいてね、家に連れてってやるって言ってきたの。食べ物もお風呂も用意してくれたんだけど……」


その後は羚弥でも容易に想像ができた。だから、思い出さなくてもいいように、もういいよと由梨の話を止めた。


それでも由梨はまだ止まらなかった。


「最終的に、まるで人が変わったように襲ってきたんだ……」


「いいって……」


予想が合っていたことに無意識に苛立ち、羚弥は思わず眉間にシワを寄せた。


「怖かった。噛み付いたり、殴ったり、必死に抵抗したのに止まらなくて……」


「分かったよ、分かったからもう思い出すんじゃねえ」


「それでね、私気づいたんだ。体を渡せば衣食住に困らないんだってことに」


「んな……」


それであの時裸だったのか、と羚弥は苦虫を噛みつぶしたような表情になった。


「それからもずっと、生きるために裸になったの。気持ち悪かった。最悪だった。もういっそ死んでしまいたいとも思った……でも生きるためには……」


由梨の泣き出しそうな顔を見ながら、羚弥は由梨の口を手のひらで覆った。


由梨の体がビクンと反応したが、羚弥は首を横に振って由梨が話さなくなるまでその手を離さなかった。


たっぷり間を空けて落ち着いた由梨は、ごめんなさいと再び謝った。


いいよ、と羚弥はため息をついてからそう言った。


「まだ少し避けてしまうかもしれないけど、私頑張ってみるから」


「無理すんな」


「……うん」


由梨の表情はまだ晴れやかではなかった。それどころか、まだ不安な様子で、相変わらず羚弥から視線をそらしていた。


それからしばらく沈黙が続いた後に、由梨が聞き取れるか聞き取れないかくらいの小さな声で、あなたは違うよねと洩らした。羚弥は信用されてないなと思いながらも、よく聞き取れる声ではっきりと大丈夫と答えた。


「俺は恋愛はしないって決めてるんだ。だから女に興味を持つこともないし、もちろん襲うこともない。安心しろって言っても無理かもしんないけど、そういうことだ」


由梨の目は見開き、ようやく羚弥の目と合った。


再びしばらくの沈黙があった後、羚弥が伸びをしてから盛大なあくびをした。


「もう十一時だ。そろそろ寝ようぜ」


いつも二十三時に寝る羚弥のその就寝時刻を、壁掛けのアナログ時計はとうに超えた値を示していた。


「そうだね。話聞いてくれてありがとね」


内に何かを秘めたような笑顔でそう言った由梨も、納得した様子で頷き、立ち上がって入口の方に身体を向けた。そして、振り返って口を動かした。


「おやすみ」


「おう。おやすみ」


羚弥が返事をした直後、由梨はすぐに部屋から出ていった。


その足音が聞こえなくなるまでベットに座っていた羚弥は、さて、と立ち上がり、明日の授業に備えて教科書類を鞄に入れた。そして、最後に寝具を整えると、再び盛大なあくびをして毛布に潜り込んだ。
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