Enchante ~あなたに逢えてよかった~
ラケットを握れない時間のもどかしさと焦りを
嫌と言うほど感じたあの時以来、休むという事に
ある種の恐れを抱いていた。
居ても立ってもいられない焦燥感。
じわじわと端から心を焼かれていくのを成す術も無く
唇を噛んで見ているだけのようなやるせなさ。
あんな思いをするくらいなら死んだほうがいいとさえ思うほどだった。
自分にとって生きることの全ては
テニスをすることなのだと痛感した澤田は
死ぬまでラケットを放さないと心に誓った。
それが結果として日々怠ることのない努力となり実績に繋がった。
そして、頂点まであと一歩。
そう思った瞬間にふと集中が切れ緊張が緩んだのかもしれない。
思うところにショットが決まらない。主導権がとれない。
焦りばかりが先走る。結果、勝てない。
もがけばもがくほど悪い連鎖に囚われていく自分を
澤田自身がどうしようもなく持て余していたところに
半ば強制的に取らされたのが今回の休養期間だった。
「そうだよ。時には立ち止まって自分を省みるのも必要なことだよ」
立ち止まり省みる、か。そんな事をしたのは
中学3年のあの怪我の静養の時だけだったかもしれない。
あれから10年。確かに一度休んでみるのもいいのかもしれない。
今度はあの頃のようにラケットを握れないわけじゃない。
焦ることはないのだから。
こんな時であっても、三木の言い様は
ただ優しいだけの言葉を並べるわけではなく
また憐れむでもない。冷静で淡々としていた。
それでも自分への思いやりが痛いほど身に沁みてくるようだと
澤田は思った。
「ああそうだ!いっそ偽名でも使って別人として暮してみる?」
「俺は前科者か?」
そんな会話の間に割って入ってきたのは
ノイズが絡んではいるものの聞き慣れた声だった。