Enchante ~あなたに逢えてよかった~

秘書から夫の荷物を手渡され
またすぐ別の仕事の期限が迫っているので
会社の近くのホテルで数日滞在することになったと告げられた。
それは珍しいことではなかった。
これまでも仕事の都合で終業が深夜や明け方になる日が続くと
利便性を考えて会社近くのホテルに滞在することはよくあった。


でも今日は・・・
今日だけは帰宅して欲しかったと絢子は落胆した。


「仕方が無いのです。奥様には申し訳ないと
副社長も常々仰っておられますよ」

「わかっています。でも・・・出張明けの今夜くらい
一度戻ってくればいいのに」


一晩くらいは自宅でゆっくり風呂に浸かって疲れを取って
妻の手料理で鋭気を養ってもいいのに、と絢子は思った。


「あ・・・ええ、副社長もそうしたいのは山々だと思いますが・・・」


秘書を責めても仕方ない。決めたのは彼じゃない。夫だ。
そうね・・・と答えて諦めのため息をついてから
絢子は、また4、5日は戻れないという夫の新しい着替えを詰めるために
手渡されたバックから1週間分の着用済みの衣類を取り出した。


そのときだった。夫の着替えの中に
見慣れないシャツを見つけた絢子は思わず「あれ?」と声を上げた。


「どうかしましたか?」
「こんなシャツ、あの人、持ってたかな、と思って」
「え?! あ、ああ!それは先日 着替えが足りなくなって
私が買ってきました」
「足りなくなった?いやだ。私、日程を間違えたのかしら」
「いえ・・・ そうではなくて、あの・・・それはその・・・
副社長が会議中に珈琲をこぼしてシャツを汚してしまいまして」


伸吾の腹心の部下で、忙しい彼の代わりに
何くれと絢子に気を使ってくれるこの秘書が
珍しく言いよどむ様に、彼へ寄せていた信頼が
ふと揺らいだのはこの時だった。

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