Enchante ~あなたに逢えてよかった~
その日、澤田は明け方近くに戻ってきて
自室のドアを静かに閉めた。
翌朝、絢子が出勤する時間になってもそのドアは開くことなく
絢子が帰宅した時には澤田は外出中だった。
気を揉む絢子が澤田と対面したのは
その日の夜遅くになってからだった。
ただいま、といつもと変わりなく自分を抱きしめた澤田に戸惑いながら
大丈夫?と絢子が見上げると、澤田は穏やかに微笑んで唇を寄せてきた。
聴きたいことは色々あった。でも訊けなかった絢子は
澤田を抱き閉めてその背を撫でた。
その翌日からは昨日の事などなかったかのように
いつも通りの甘やかな時間が流れた。
ただ一つ違ったのは澤田が今まで以上に
今の生活を満足げに語ることが多くなったことだった。
教育大に行って資格を取り教職に就こうかと言ってみたり
大和のように学園経営にも関心を示す素振りも見せる。
でもそれは澤田が自分で自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
そうるする事で無理に納得させているように思えてならなかった。
澤田がこれからのビジョンを語れば語るほど
絢子の疑念は確信に変わっていった。
選手生活に未練がないなんて嘘だ。
コートに戻りたいに決まっている。
トーゴの活躍と挑発とも取れる発言に
澤田が発奮していないわけがない。
10代のほとんど全ての時間をテニスに費やしてきたのだ。
ただ一途に一筋に情熱を注ぎ打ち込んできたのだ。
今は休養中だけれど、大怪我をしているわけじゃない。
年齢的に無理なわけでもない。
むしろ20代半ばは体力的にも精神的にも一番充実しているのだと
聞いたことがある。たとえどんなにスランプであろうと
今はまだ諦められるはずがないのだ。
なのに彼が此処に留まる理由があるとすれば
それは自分の存在なのだ。
絢子は項垂れた。
それほどまでに想われているのは嬉しい。
でも自分のために目指してきたものを諦めて欲しくない。
澤田にはまだまだ可能性があるのだ。
それを閉ざしてしまうことはできない。してはいけないのだ。
そう思った絢子は一つの決意を胸に携帯を取った。