Enchante ~あなたに逢えてよかった~

澤田くんを元の世界に帰すために協力してください、と
絢子が大和に電話をしたのは一週間前の事だった。


絢子がどれだけ諭しても澤田は頑に選手生活からは引退して
ここに留まると言い張った。何度話をしても平行線で埒が明かない。
そんな彼に最後の手段として絢子が選んだのは
自分の不実さを見せることだった。
真面目で誠実な澤田のことだ。不実は許せないはずだ。
彼に軽蔑されることは身を切られるほど辛いけれど
それしかないと絢子は覚悟を決めた。
過去に夫の不実で深く傷ついた絢子には、辛い決断だった。


そんな絢子の話を聞いた大和は
「絢子さんがそうしたいのなら」と協力を快諾した。


忘年会だと偽って大和と密会し、朝帰りしたところを
澤田に目撃させる。澤田と恋人になる以前から
実は大和とも男女の関係だった。それが密かに今も続いている。
要は絢子が性質の悪い二股女だった、というのが
彼女の考えたシナリオだった。



「朝帰りしただけじゃあの澤田君は騙せないでしょうから
やるなら徹底的にやりましょう」

「徹底的って?」

「ボクに任せてください」


もちろん今回のことは一度きりのお芝居で
実際に大和と男女の仲になるわけではない。
オールナイトの映画でも見て、ファミレスで時間を潰せばいいと
絢子は考えていた。


しかしそれでは不十分だと言う大和に
促されるままに絢子は彼の車に乗った。
着いたところは湾岸沿いの小高い丘にある旧いホテル。
昔、絢子が元夫と初めてのデートの時に来たホテルだった。
プロポーズもここだったなと、思い出しはしても
もう感傷もなければ痛みもなかった。
それは時が癒してくれただけではない。澤田の存在も大きい。
彼に出逢って、愛され愛した時間は何より絢子を癒してくれた。
失っていた女としての自信も悦びも幸せも
全部彼が与えてくれた。


なのにその澤田を自分は今、欺こうとしているのだ。
たとえそれが彼の為であったとしても、辛い。辛すぎる・・・
絢子は自分の腕で自分をぎゅっと抱きしめた。



< 88 / 112 >

この作品をシェア

pagetop