Enchante ~あなたに逢えてよかった~
「そう・・・駿ちゃん、帰ったんだ」
「うん」
澤田が出て行った後の家は、やけに広く感じて
絢子は思わず身震いするような寂寥感を覚えた。
家を建ててから一度も感じたことなどなかった。
心から安堵して寛げる居心地のよい居場所だったはずなのに
ひたひたと四方から冷たい孤独が押し迫ってくるようで
居た堪れなくなった絢子は逃げるように家を飛び出し
向った先はキャサリンの店「藍」だった。
「急用か何か?」
「違うわ」
「そう。でもまあ いずれ元の世界に戻る人だったんだから
いいんじゃない?」
「・・・うん」
少し何か食べないと、とキャサリンは絢子の前に
煮物の入った小鉢と出し巻き玉子の皿を置いた。
「実はウチに来てたのよ・・・駿ちゃん」
「え?!」
「アンタにも佑ちゃんにも黙ってて欲しいと頼まれたから黙っていたけど」
キャサリンは慣れた手つきでグラスを吹き上げながら
低いトーンで呟いた。
「五日か、六日前だったかしらね?ここに来て飲んで潰れちゃって。
アーヤを呼ぼうとしたんだけど、ダメだっていってきかないから
仕方なく私のマンションに連れて帰ったの」
「そうだったの」
「どうせアンタとケンカでもしたんだろうと思ってたんだけど
翌朝、しばらく泊めて欲しいって言い出すものだから
どうしたの?って訊いたんだけど、訳は聞かないでくれって
頭下げられちゃって。言いたくないことを無理やり言わせようとは
私も思わないし、聞いたところで私はどうしようもないし。
ただのケンカでも そうでないいざこざでも 当人同士でなきゃ
解決なんてできないでしょ。それに頭を冷やすのに時間が必要ってことも
あるからね。気の済むまで居ればいいって言ったのよ。
私、自宅には寝に帰るだけだしさ。ほとんど留守だし
どこの馬の骨ともわからない野郎じゃ
さすがの私も自宅には置いてはおけないけど、駿ちゃんだからね。
居候、大歓迎よ」
あぁそれで、と絢子は納得した。
財布も携帯も持たずに出ていった澤田がどうやって五日間も
過していたのかとずっと気になっていたのだ。
「駿ちゃん、元々口数少ないけど、更に喋らなかったわね。
思いつめた様子でずっと考えごとをしてたわ」
絢子はうっと小さく息を詰めた。
苦い思いが広がっていく胸を掻き毟りたくなった。
「ね、アーヤ」
「なに?」
「駿ちゃんとはもう終った、ってこと?」
「・・・うん」
「いいの?それで。遠距離恋愛って手もあるのよ?」
「いいのよ。もう終りなの。ここまででお終い」
そう、とキャサリンはふぅと深く息をついた。
「ま、アンタがいいなら、いいけどね」
キャサリンは冷えた吟醸の注がれた切子が美しい輝きを放つグラスを
小さく掲げると、くいっと煽った。