それでも、愛していいですか。

「なんですか」

「あの、えっと……」

阿久津は表情一つ変えず、奈緒を見ている。

この表情で見つめられると、どうしても萎縮してしまう。

「あの……前、会った時一緒にいた、あのきれいな女性って……」

奈緒は聞いてはみたものの、返事が怖くて顔を上げられなかった。

「ああ。あれは、妹です」

「あ、妹さん」

なんだ、妹だったのか。と安堵したのも束の間、

「妻の」

と、阿久津が付け加えた。

一瞬、頭が真っ白になった。

その言葉の意味を理解するのに少々時間がかかった。

「あ、ああ、そうなんですか、奥様の……」

呪文のように口先だけが動いていた。

放心状態でなにも考えられない。

「じゃ、失礼するよ」

「あ、はい……」

阿久津は来た道をさっそうと戻っていった。

その場に取り残された奈緒は、しばらく阿久津の背中を眺めていた。

「妻の」という言葉が無情にも頭の中で何度もぐるぐると回る。

やっぱり、結婚していた。

やっぱり、先生は大人だった。

「既婚者」という確定的な事実を知ってしまった今、かすかに残っていた淡い期待さえも完全に打ち砕かれ、打ちのめされた。





< 54 / 303 >

この作品をシェア

pagetop