魔王様と私
誰に追われるでもなく、ただ、人気のないところを目指していた。
電灯もない、ただ純粋に月明かりだけが照らす夜道を駆ける。
息が切れ、苦しさに涙が出た。
立ち止まり、肩で息をする。
前を見ると、涙でぼやけた視界に人影が映った。
「…誰?」
ほとんど無意識に出た言葉に、彼は、自分に向けて指をさした。
『僕?僕はイージス・ヴァルケリー。君は?』
脳に直接届いた、中性的な声に肩が上がった。
(なに…これ)
『これは念話だよ。さぁ、僕は君の疑問に二度も答えた。次は、君のことを教えてくれない?』
彼が動くにつれて、私との間は狭くなる。
その間も、脳に声が響いていた。
気がつくと、すぐ目の前まで、彼が近づいてきていた。
「っ!」
つい、条件反射で、彼との距離を開けても、彼の足は止まらず、彼が一歩踏み出せば、私は一歩後退する。
『僕が怖い?』
(怖い?怖い。来ないで)
『そっか。怖いか…。そうだよね』
彼は、さみしげに呟いて、距離を置いた。
(もしかして、声にでてた?)
咄嗟に口を覆うが、声はでてなかったはずだ。と一人頷く。
彼も距離を置いただけで、まだ話す気はあるようだ。
『君の名前を教えてくれないかな?』
「私は…私の名前は……名前…え?」
名を問われて、答えようとすると、自分の名前が思い出せなかった。
「名前…すず?違う。あれ?か…か…」
ほんのりと浮かぶ、自分の名前らしき記憶を必死で手繰り寄せる。
だが、何故だか思い出せなかった。
『名前がわからないの?記憶喪失かな?じゃあ、住むところもない?』
私は頷き、肯定する。
(この"世界"にはない)
『そっか。じゃあ、僕のところにおいでよ。君に住む家を用意してあげる』
彼は穏やかな声でそう言い、私に手を差し伸べた。
月明かりだけではよく見えないが、きっと今、彼は微笑んでいるのだろう。
そう考えた瞬間、この人は私を傷つけないと思った。
私は迷うことなく、彼の手をとった。
(あぁ、やっぱり彼は笑ってる)
「………」
夢を見た。私と魔王出会った時の夢だ。
まだ最近のことなのに、もう数年前の出来事のように感じる。
それから、私の曖昧な記憶は徐々に形を取り戻し、もう、ほぼ思い出しているが、まだ魔王にはそのことを言っていない。
もし、言って追い出されでもしたら、私に死ぬ以外の道はない。
朝からなんて憂鬱な気分なんだ。
心のなかでため息をはき、ベッドをでる。
服を着て、すぐ隣の魔王の部屋へ続く扉を開く。
すぐにベッドの脇へ行き、盛り上がった掛け布団の場所手を当て、揺さぶる。
「魔王、起きて。朝。仕事。はい、起きて」
なんど言っても布団に潜り込み、唸っている魔王。
布団を奪おうとしても、男女の力の差という名の壁が越えられず、仕方なく、起きるまで、魔王を揺さぶり続けた。