チェリとルイル
「え? と、泊まるって…ど、どうしてですか?」
チェリは、オロオロしている。
窓の外は、まだ明るい。
天気もいい。
まだまだ、狩りの続きも出来るだろう。
だが。
「今日は、家に帰るな」
ニタの側に、チェリがいてはならない。
でなければ、ルイルを怒らせるために、また何をしでかすか分からないからだ。
そんなところに、帰すわけにはいかなかった。
ルイルを怒らせて、得られる反応はいくつかあるだろう。
考えられることのひとつは、怒った彼が直接チェリの家に乗りこむこと。
これを望んでいるとするならば、ニタはその間に、この家に空き巣をする可能性があった。
彼女は、この家に溶けるのに何ら障害がない。
先に溶けられると、もはやルイルは簡単には取り返せなくなる。
また、前回のような命がけのケンカが待っているだろう。
何度も何度も、師匠の助けを期待する訳にもいかない。
だから、ルイルはこの家を出ない。
その代わり。
チェリを、ここに置いておけばいい。
そうすることが、現時点の最善の方策と考えたのだ。
「だから……どうして?」
そんな、魔法使い同士の争いの過程は、彼女の想像を越えてしまっているようで、眉尻を下げて困った顔をしている。
困らせたいわけではないので、ルイルは部屋の空気を動かすことで、ひとつのことを証明した。
温かい風の手で、その肌を撫でる。
「あ、れ?」
すり傷やあざを、そうして彼は少しずつ消していったのだ。
「こんなことは、ニタにも出来る」
驚きながら自分の腕を、右に左に動かしながら確認しているチェリも、これで分かるだろう。
えっと、しばらく彼女は考えた後──しょんぼりした。
何故!?
反応が理解できない。
「やっぱり、私……嫌われてるんですね」
分かりきっていることに、彼女はすっかり落ち込んでしまった。
※
チェリは、ニタに好かれていない。
それを、分かっていなかったことの方が、ルイルには信じられなかった。
あんなに分かりやすいのに。
もしかしたら、ニタは自分を怒らせたいから、こんなことをしたのではないのかもしれない。
彼女を擁護するわけではないが、珍しくそう思ってしまった。
人と人との付き合いをしようとしようとするチェリに、そんなことは無理なのだと、嫌がらせで思い知らせようとしているのかもと、考えてたのだ。
「ニタに好かれなくていい」
若い魔法使いは、世情に疎く好き嫌いの激しい者が多い。
なまじ力があるものだから、自らの力で現世を駆け巡るものも少なからずいる。
ニタなど、その典型だ。
いまでこそ家に固執しているが、父親が生きている間は、溶けることを好まなかった。
彼女がいま、上層に行きたいのは、ただ単に父親の側に近づけるから──それだけ。
だから、心配した師匠は家を渡さなかったし、新しい家も用意しなかったのである。
そんな、まだ荒れ狂う嵐のようなニタに、人間が好かれるなんて難しい話だ。
「でも、一緒に住んでいるんだし、嫌われているより好かれたいな」
しょんぼりのまま、彼女は難しい夢を見ようとしている。
そんな夢より、もっと建設的な方法があるではないか。
「無理だ。一緒に住まなくていい。追い出せ」
ルイルは、ざっくりと答えを取り出して、彼女の前にどんと置いた。
なのに、とんでもないと言わんばかりに、彼女は目を見開く。
「ニタさんのお父様って、あのおじいさんでしょ!? あの人がうちに住むように言ったってことは、それが彼女のためになるからでしょ?」
師匠は、倒れたルイルと娘の惨状を見兼ねて、チェリの身を借りたという。
だから、彼女は師匠のことをぼんやりとながらに知っているのだ。
「ニタのためにはなるが…」
そこまで言いかけて、自分が言い淀んだことに気づいた。
そういえば。
呼んだことがなかった。
チェリ、と。
この子を表す、名前という符号。
「…お前のためにはならん」
気づいたら──避けていた。
※
「お父さんが…子どもの幸せを願うなんて、当たり前のことだもの」
チェリは、細い頬に空気を入れてふくらませた。
日ごろ、のどかな彼女が怒っている。
ルイルは、初めて見る表情に、顔を険しくした。
何故、自分に怒るのか理解が出来なかったのだ。
彼は、チェリの身を案じている。
人間のことなど、好きどころか大嫌いのニタと一緒にいれば、どれほど大変で痛い思いをするだろう。
だから、あの問題児を引きはがすために、チェリをこの家に保護──そう、保護しようとしたのだ。
淡い夢や期待を抱いていては、この後傷つくのは彼女自身。
ニタの性質を見せ、同じように相手を嫌えば、それで決着がつく。
何故、自分を嫌っている相手とまで、仲良くしようと努力するのか、どうしてもルイルには理解できなかった。
嫌いという感情は、悪ではない。
この世に生きるものが、自然に持っている自衛感情のひとつ。
だが。
「私のお父さんも…私の幸せを願ってくれたもの」
ルイルは──間違っていた。
嫌いというものについて、どう言えば分かってもらえるか。
思えば、ルイルは随分と見当はずれな理論について考えていた。
この少女は、学問の徒でもなく、ましてや魔法使いでもない。
彼女は、まだ年若い森の狩人。
父も母もいない、たった一人で生きて行く娘。
それを思った時、ルイルは生まれて初めて、胸が痛いと思った。
この娘に同情して、そう思ったのではない。
本質的な意味での、彼女の父と母のことを思い出したのだ。
彼は、二人を知っていた。
いまや、誰もそのことをチェリに語れる人間はいない。
みな、この世にいないからだ。
語ることが出来るのは──ルイルだけ。
狩人の父を、いまでも愛する彼女に。
自分がしたことを語ったならば、この娘はどういう目で見るだろう。
そう考えたら。
生まれて初めて、胸が痛んだのだ。
チェリは、オロオロしている。
窓の外は、まだ明るい。
天気もいい。
まだまだ、狩りの続きも出来るだろう。
だが。
「今日は、家に帰るな」
ニタの側に、チェリがいてはならない。
でなければ、ルイルを怒らせるために、また何をしでかすか分からないからだ。
そんなところに、帰すわけにはいかなかった。
ルイルを怒らせて、得られる反応はいくつかあるだろう。
考えられることのひとつは、怒った彼が直接チェリの家に乗りこむこと。
これを望んでいるとするならば、ニタはその間に、この家に空き巣をする可能性があった。
彼女は、この家に溶けるのに何ら障害がない。
先に溶けられると、もはやルイルは簡単には取り返せなくなる。
また、前回のような命がけのケンカが待っているだろう。
何度も何度も、師匠の助けを期待する訳にもいかない。
だから、ルイルはこの家を出ない。
その代わり。
チェリを、ここに置いておけばいい。
そうすることが、現時点の最善の方策と考えたのだ。
「だから……どうして?」
そんな、魔法使い同士の争いの過程は、彼女の想像を越えてしまっているようで、眉尻を下げて困った顔をしている。
困らせたいわけではないので、ルイルは部屋の空気を動かすことで、ひとつのことを証明した。
温かい風の手で、その肌を撫でる。
「あ、れ?」
すり傷やあざを、そうして彼は少しずつ消していったのだ。
「こんなことは、ニタにも出来る」
驚きながら自分の腕を、右に左に動かしながら確認しているチェリも、これで分かるだろう。
えっと、しばらく彼女は考えた後──しょんぼりした。
何故!?
反応が理解できない。
「やっぱり、私……嫌われてるんですね」
分かりきっていることに、彼女はすっかり落ち込んでしまった。
※
チェリは、ニタに好かれていない。
それを、分かっていなかったことの方が、ルイルには信じられなかった。
あんなに分かりやすいのに。
もしかしたら、ニタは自分を怒らせたいから、こんなことをしたのではないのかもしれない。
彼女を擁護するわけではないが、珍しくそう思ってしまった。
人と人との付き合いをしようとしようとするチェリに、そんなことは無理なのだと、嫌がらせで思い知らせようとしているのかもと、考えてたのだ。
「ニタに好かれなくていい」
若い魔法使いは、世情に疎く好き嫌いの激しい者が多い。
なまじ力があるものだから、自らの力で現世を駆け巡るものも少なからずいる。
ニタなど、その典型だ。
いまでこそ家に固執しているが、父親が生きている間は、溶けることを好まなかった。
彼女がいま、上層に行きたいのは、ただ単に父親の側に近づけるから──それだけ。
だから、心配した師匠は家を渡さなかったし、新しい家も用意しなかったのである。
そんな、まだ荒れ狂う嵐のようなニタに、人間が好かれるなんて難しい話だ。
「でも、一緒に住んでいるんだし、嫌われているより好かれたいな」
しょんぼりのまま、彼女は難しい夢を見ようとしている。
そんな夢より、もっと建設的な方法があるではないか。
「無理だ。一緒に住まなくていい。追い出せ」
ルイルは、ざっくりと答えを取り出して、彼女の前にどんと置いた。
なのに、とんでもないと言わんばかりに、彼女は目を見開く。
「ニタさんのお父様って、あのおじいさんでしょ!? あの人がうちに住むように言ったってことは、それが彼女のためになるからでしょ?」
師匠は、倒れたルイルと娘の惨状を見兼ねて、チェリの身を借りたという。
だから、彼女は師匠のことをぼんやりとながらに知っているのだ。
「ニタのためにはなるが…」
そこまで言いかけて、自分が言い淀んだことに気づいた。
そういえば。
呼んだことがなかった。
チェリ、と。
この子を表す、名前という符号。
「…お前のためにはならん」
気づいたら──避けていた。
※
「お父さんが…子どもの幸せを願うなんて、当たり前のことだもの」
チェリは、細い頬に空気を入れてふくらませた。
日ごろ、のどかな彼女が怒っている。
ルイルは、初めて見る表情に、顔を険しくした。
何故、自分に怒るのか理解が出来なかったのだ。
彼は、チェリの身を案じている。
人間のことなど、好きどころか大嫌いのニタと一緒にいれば、どれほど大変で痛い思いをするだろう。
だから、あの問題児を引きはがすために、チェリをこの家に保護──そう、保護しようとしたのだ。
淡い夢や期待を抱いていては、この後傷つくのは彼女自身。
ニタの性質を見せ、同じように相手を嫌えば、それで決着がつく。
何故、自分を嫌っている相手とまで、仲良くしようと努力するのか、どうしてもルイルには理解できなかった。
嫌いという感情は、悪ではない。
この世に生きるものが、自然に持っている自衛感情のひとつ。
だが。
「私のお父さんも…私の幸せを願ってくれたもの」
ルイルは──間違っていた。
嫌いというものについて、どう言えば分かってもらえるか。
思えば、ルイルは随分と見当はずれな理論について考えていた。
この少女は、学問の徒でもなく、ましてや魔法使いでもない。
彼女は、まだ年若い森の狩人。
父も母もいない、たった一人で生きて行く娘。
それを思った時、ルイルは生まれて初めて、胸が痛いと思った。
この娘に同情して、そう思ったのではない。
本質的な意味での、彼女の父と母のことを思い出したのだ。
彼は、二人を知っていた。
いまや、誰もそのことをチェリに語れる人間はいない。
みな、この世にいないからだ。
語ることが出来るのは──ルイルだけ。
狩人の父を、いまでも愛する彼女に。
自分がしたことを語ったならば、この娘はどういう目で見るだろう。
そう考えたら。
生まれて初めて、胸が痛んだのだ。