甘え下手
ああ、あれか。

おやすみのキスってやつ。


そんなのガラじゃないけど、彼女が望むならそれを叶えてやりたいと思って、彼女の顎をすくいあげようと反対側の手を動かした時だった。

それまで黙っていた比奈子がポツリとつぶやいた。


「まだ帰りたくないです……」


そのセリフを聞いて、ふっと微笑ましい気持ちがこみ上げてくる。


「それ、俺が教えたやつじゃん」


その時俺は比奈子が単に俺の望む彼女像に近づこうと努力してるんだと思った。


「そんなこと言うと俺に襲われちゃうよ、比奈子ちゃん」

「……」


黙って俺を見上げる潤んだ瞳。

それに欲情するというより、彼女が思ったよりも深刻な表情をしていたから俺は息を飲んだ。


からかってる場合じゃないらしい。


「どうした?」

「……すみません。変なこと言って」


だけど彼女はそこでニコッと笑っていつもの表情へと戻ってしまった。
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