猫、みゃあこさん
猫さん



 ぬかるんだ地面。水溜まり。水鏡に映る草木。煤けた下駄。ぱしゃん。跳ねた泥。ぽつり。茶色の斑点。藍色の着物。二本足。汚れ。


「美夜子さん。美夜子さん、何処にいるんだい。みゃあこさん」


 ひとつ呼ぶ。しいん。静寂。ふたつ呼ぶ。てんてんてん。沈黙。みっつ呼ぶ。みゃあん。返事。


「やあ、其処にいたんだね。いつまでもこんなところにいては、また風邪をひいてしまうよ。家に入ろう」


 ほいやり。笑顔。みゃあん。返事。提案。にっこり。笑顔。にこ、にこ。笑顔。


◆◇


 犬井忠美。いぬい、ただみ。友人からは散々「古臭い」だの「ださい」だの扱き下ろされ続けてきた名ではあるが、存外私はこの名を嫌ってはいない。
 イマドキの若者たちにはこのいかにも日本らしい落ち着いた名前は気風に合わないらしいが、それでもこの平凡な日本人顔で“じゅりあ”やら“ぽあら”といったきゃぴきゃぴな思い切った名前をつけられるよりかは良かったと思うのだ。……これは、さすがに些か極論過ぎる気もするが。だが、もしも私にそのような名前がつけられてしまったとしたら、世間一般とのギャップに気付いた途端、私は全てにおいて無気力になっていたことだろう。

 ……ああ、狭苦しい教室の中。人口密度が高く、気が滅入る中、何故さらに気分が落ちるようなことを考えているのか。
 馬鹿なことはやめよう。
 教室の前。黒板がかけられ、その上にある時計を見る。始業十分前。そろそろ一時限目の授業の準備をし始めても良い頃だろう。


「ねえ、タミ、知ってる?」
「なに?」


 一切持ち帰らずに机の中に置き去りにしていた教科書類を引っ張り出していると、友人のひとりであるリコがそう言いながら私に振り向いた。さっきまで一緒になって話していたリコの前の席の彼女は早々に違う話し相手を見つけ出し会話に花を咲かせている。人とのコミュニケーションが上手く取れない私にとってはとても羨ましい才覚だ。
 ちなみに、“タミ”というのは私のあだ名で、極一部の親しい人たちは私をそう呼んでいる。


「最近さ、“猫さん”、また出るようになったらしいよ」
「“出る”って……、妖怪や幽霊じゃないんだから」


 一応諌めるように言った私に、リコがにやりと笑う。


「似たようなもんでしょ」
「まあね」


 苦いものを交えて、私も笑う。
 偶然に小・中・高と全て同じ学校を選択してきた私たちは、ご近所さんの関係だ。そんな私たちの家の付近には、有名人がいる。
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