猫、みゃあこさん
今まで遭遇することがあっても何もされたことがないし、誰かが被害に遭ったという話も聞いたことがないので“気を付ける”というのは酷い言い種かもしれないが、それでも自分たちと比べて異質なものを見つけてしまうと人間は恐怖を感じるものである。
「……気を付けるね」
出来ることなら、彼に会わずに済むと良い。頭のおかしい、猫屋敷の猫さんと。
◆◇
「宿題考査かあ……」
前々から告知されていたのを、すっかり忘れていた。日が傾き始めてきた学校からの帰り道。橙色がかかった黒いアスファルトの道路を歩きながら、春休み明けの宿題考査の範囲が記された用紙を手に、私は深くため息を吐いた。
高校二年生の私は文系・理系の選択を既に済ませているので、苦手な理数系はそれほどの難易度のものは出ないとはいえ、テストとなるとやはり憂鬱なものだ。
リコも帰りのSHRでこの不幸の手紙を配布されると直後に机に突っ伏していた。そんなことをしても現実から逃避出来るわけではないと宥めようとすると頭の頂点に軽くチョップを食らった。良き友人である私に酷い仕打ちである。
そのときのことを思い出してくすくすと笑っていると、そんな不気味な私を咎めるように猫が鳴いた。驚いて顔を上げる。
「……猫」
鳴き声が聞こえたときからわかってはいたが、やはり其処には猫がいた。そして気付く。此処は、猫屋敷だ。猫屋敷を囲う、焦げ茶色の木で出来た背の低い塀。その傍らにむっつりとした顔で前足を胸の中に丸めて寝そべっている、猫。黒くつやつやとしたその毛並みはとても野良とは思えない。
「――さん、」
逃げていきやしないだろうか。恐る恐る黒猫へと手を伸ばした私の耳に、誰かに呼び掛けているような男性の声が飛び込んできた。
「美夜子さん。何処にいるんだい、美夜子さん」
猫さん、だ。
パニックになると、頭は故障して、故障した頭と連動して身体は指先すらも動かせなくなるのだということを、私は初めて知った。
まずい。
まずい、まずい。逃げなければならない。
最近、またよく庭に出てくるようになったと今日聞いたばかりだったのに。こんなことなら猫なんかに気を取られるのではなかった。探せば野良猫なんぞいくらでもいる。何も猫屋敷の目の前で見つけたこの黒猫ではならない理由などなかったはずだ。
「――美夜子さん、」
ようやく頭が機能し始めて身体が逃げ出そうとしたとき、猫さんが塀から顔を覗かせた。
ばくんと、心臓が嫌な音を立てた。