Over Line~君と出会うために
テーブルの上で組まれた、男性にしては細くてしなやかな指が落ち着きなく動く。右の中指に嵌められた大振りのシルバーのリングは、決して邪魔にはならずに彼の趣味のよさを教える。身に着けたスーツは黒を基調にした品のいいもので、シルバーのアクセサリーがそれにわずかな華やかさを添えていた。
印象が、一致しない。
それがいいのか悪いのか、彩にはよくわからないままだ。
「ここね、結構美味しいんだよ。俺、何度か来ているんだけどさ、個室もあるから落ち着いて食事ができるし、人の目も気にならない。きっと、君も気に入ると思うな」
どういうわけか、貴樹はやたら上機嫌だ。落ち着きなく喋っているのは変わらないけれど、不機嫌そうに黙り込まれるよりはよほどいい。
「えっと、それじゃ……自己紹介、ちゃんとした方がいいかな。俺は、東城貴樹。年は……えっと、二十七! 君は?」
と聞いてから、貴樹は「あっ」と声を上げた。
「女性に年齢を聞いちゃいけないんだった……」
それまではしゃいでいたのが、急にしょんぼりとして貴樹は肩を落とす。
「ごめんなさい、今のなしで」
「……別に、気にしませんよ。でも、答えません」
二十七ということは、彩よりも四歳は年上だ。意外と年齢が上だったことに驚いたが、それは黙っておくことにする。
「えと、怒っていませんか……?」
「怒ると言うなら、前回のことの方が失礼だと思いますけど。あれについて、言い訳とかはないんですか?」
少し意地の悪い言い方をしてじろりと視線を向ければ、貴樹は目に見えてうろたえた。
「……えーと、あれは……その、ちょっと、事情が。いろいろと込み合っていて、そのぅ……」
あくまでも、詳しい事情を話すつもりはないらしい。それでも、目を伏せてしどろもどろになりつつも、貴樹は反応を伺うように彩を見る。その様子がまるで飼い主のご機嫌を窺う犬のように見えて、彩は思わず噴き出してしまった。
犬だ。
犬がいる。
一度そう思ってしまうと、彼のうなじで揺れる緩く編まれた三つ編みが尻尾にしか見えて来なくなってしまって、笑いが止まらなくなる。
「え、えっ、何で笑うの!?」
途端におろおろとし始める貴樹に、更におかしくなる。
我ながら不躾だったな、と反省しつつも、彩は笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭った。
「……いえ、ちょっと、おかしくて。あなた、犬っぽいって言われることがないですか?」
「よくわかるね! いっつも言われる! 血統書つきのバカ犬だとか、そういうふうに!」
それはバカにしているのと紙一重のように思えるが、確かに、その喩えは間違っていない。どう見ても、彼の印象は犬にしか見えない。
わふわふと尻尾を振りちぎりながら圧し掛かってくる、愛想はいいが少しばかり頭の悪そうな血統書付きのもふもふだ。
何だか、いろいろと力が抜けてしまった。
本当は、この前のことを追及してやろうかと思っていたのだ。いきなりあんなことをされて、一人の時間を邪魔されて、その理由くらいは聞いてみたいものだ、と。
だが、どうでもよくなってきた気がする。と言うよりも、毒気が抜かれてしまった、とでも言うべきか。
「えっと……あの、この前は申し訳ありませんでした!」
いきなり、貴樹はがばっと頭を下げた。驚く彩を見上げて、困ったように小首を傾げる。
「もう、怒ってない……よ、ね……?」
ダメだ。
犬に、負けた。完敗だ。怒っていたとしても、こんな表情を見せられたら全てがどうでもよくなる。
「……今でも怒っていたら、こんな所にのこのこ来たりはしないと思うけど」
「よ、よかった……!」
本気でほっとしたらしく、貴樹はふにゃりと相好を崩した。
黙っていればそこそこにカッコいい部類に入るだろうに、喋ったり笑ったりするだけでイメージが変わる。たぶん、彼はそれなりにもてるのだろうな、と、彩は思った。
だが、そんなもてる男が、何故、自分を食事に誘うのか。
先日の謝罪という理由があるにしても、それならば、何も個室でディナーでなくとも充分だ。
やがて料理が運ばれてくる頃になると、彩は何だか疲労感さえ覚えてしまう。従業員は仕事だからこっちが気にするほど人のことなど見ていないのだろうが、やはり、こんな個室でディナーというのは、気の張るものでしかない。
「……あれ、こういうの、嫌い?」
彩の様子に不安になったのか、またしても急にしょんぼりした声音になった貴樹が妙におかしくて、彩は慌てて首を横に振った。
「そういうわけではないの。ただ、こういう席って慣れていないから、緊張しちゃって」
「そうかなぁ。でも、彩さんは可愛いから、誰も気にしないと思うよ!」
「はあ?」
その切り返しは、意味がわからない。可愛いと言うのなら、犬っぽい貴樹の方がよほど可愛く見える。
おそらく、貴樹には悪気がないのだろう。純粋に褒めてくれているのだろうことは、わかる。
「……えっと、ごめんなさい」
「え、何で謝るの?」
「だって、俺、今、すごく不躾なことしたよね。本当は、彩さんがここに来てくれたことだって、俺は感謝しなくちゃならないのに、勝手にべらべら喋って……。何か変なこと考えているって思われちゃうかな、って」
「変なことって」
「誓って! そんなこと、ないから! 俺、自分が胡散臭い外見なのは知ってるし、たぶん、この前のことで彩さんには迷惑かけたから、俺のこと信用ならないって思われても仕方ないとは思ってる。でも、俺は、彩さんと友だちになりたいんだ。そういうのは、ダメ……ですか。あ、いや、その、えと、だから」
言い訳をしているうちに、自分でも何を言っているのかわからなくなってきたのだろう。貴樹は時折首を傾げながらも、懸命に言葉を重ねて来る。
その様子は、まるで宿題を忘れたことに対しての言い訳を一生懸命に考えている子供のようで、彩はまたしても噴き出してしまった。
「……あの、彩、さん……?」
「何だか、東城さん、最初とすごくイメージが違いますね」
「え、そ、そうですか?」
妙にそわそわとしとしている貴樹に苦笑する。何をそんなに慌てているのか、不思議でたまらない。こんな場所に呼び出されて二人きりになって、警戒して挙動不審になるとすれば、彩の方だというのに。
「最初はね、すごく頭が悪そうに見えましたから……その、あんな感じでしたし」
「ご、ごめんなさい」
「それは、それぞれに事情があることだから、別にいいんです。でも、あの時、いきなりフィギュアとか出したでしょう? それで、何だか怒っているのもバカバカしくなって来ちゃって」
「ふぉえ」
いきなり、貴樹が変な声を出す。どうやら、ワインでむせたらしい。だが、すぐに気を取り直したように口を開いた。
「あ、あれは、厳密に言うとフィギュアじゃなくて」
「は?」
何となく不穏な単語が飛び出してきたことに、彩は眉をひそめる。この会話のパターンは、大輔とのそれを思い起こさせる。彼が延々と大好きなあれそれについて語り、彩はハイハイとひたすら相槌を打って話を合わせるという微妙な苦行の。
大輔のことは好きだし、大事な幼馴染だ。彼の好きなものをバカにするつもりもないのだが、さすがにそればかり聞かされるのも疲れて来る。
スイート何とかというアニメは、大輔にとって大切な作品なのだ。あれは、彼がキャラクターをデザインしたものの中で初めてそこそこにヒットした作品で、彼はものすごく大事にしている。その愛情が行き過ぎて、時折、理解不能なほどに。貴樹の最初の反応からしてあれが好きなのは確かだろうから、大輔が知ったら小躍りして喜ぶに違いない。二人が揃ったら鬱陶しいことこの上なさそうだが。
「あ、いや、その」
彩の反応が気にかかったのか、貴樹は目に見えてうろたえた。大輔もそうだが、話はしたいが馬鹿にされたくはないという葛藤があるのだろう。
印象が、一致しない。
それがいいのか悪いのか、彩にはよくわからないままだ。
「ここね、結構美味しいんだよ。俺、何度か来ているんだけどさ、個室もあるから落ち着いて食事ができるし、人の目も気にならない。きっと、君も気に入ると思うな」
どういうわけか、貴樹はやたら上機嫌だ。落ち着きなく喋っているのは変わらないけれど、不機嫌そうに黙り込まれるよりはよほどいい。
「えっと、それじゃ……自己紹介、ちゃんとした方がいいかな。俺は、東城貴樹。年は……えっと、二十七! 君は?」
と聞いてから、貴樹は「あっ」と声を上げた。
「女性に年齢を聞いちゃいけないんだった……」
それまではしゃいでいたのが、急にしょんぼりとして貴樹は肩を落とす。
「ごめんなさい、今のなしで」
「……別に、気にしませんよ。でも、答えません」
二十七ということは、彩よりも四歳は年上だ。意外と年齢が上だったことに驚いたが、それは黙っておくことにする。
「えと、怒っていませんか……?」
「怒ると言うなら、前回のことの方が失礼だと思いますけど。あれについて、言い訳とかはないんですか?」
少し意地の悪い言い方をしてじろりと視線を向ければ、貴樹は目に見えてうろたえた。
「……えーと、あれは……その、ちょっと、事情が。いろいろと込み合っていて、そのぅ……」
あくまでも、詳しい事情を話すつもりはないらしい。それでも、目を伏せてしどろもどろになりつつも、貴樹は反応を伺うように彩を見る。その様子がまるで飼い主のご機嫌を窺う犬のように見えて、彩は思わず噴き出してしまった。
犬だ。
犬がいる。
一度そう思ってしまうと、彼のうなじで揺れる緩く編まれた三つ編みが尻尾にしか見えて来なくなってしまって、笑いが止まらなくなる。
「え、えっ、何で笑うの!?」
途端におろおろとし始める貴樹に、更におかしくなる。
我ながら不躾だったな、と反省しつつも、彩は笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭った。
「……いえ、ちょっと、おかしくて。あなた、犬っぽいって言われることがないですか?」
「よくわかるね! いっつも言われる! 血統書つきのバカ犬だとか、そういうふうに!」
それはバカにしているのと紙一重のように思えるが、確かに、その喩えは間違っていない。どう見ても、彼の印象は犬にしか見えない。
わふわふと尻尾を振りちぎりながら圧し掛かってくる、愛想はいいが少しばかり頭の悪そうな血統書付きのもふもふだ。
何だか、いろいろと力が抜けてしまった。
本当は、この前のことを追及してやろうかと思っていたのだ。いきなりあんなことをされて、一人の時間を邪魔されて、その理由くらいは聞いてみたいものだ、と。
だが、どうでもよくなってきた気がする。と言うよりも、毒気が抜かれてしまった、とでも言うべきか。
「えっと……あの、この前は申し訳ありませんでした!」
いきなり、貴樹はがばっと頭を下げた。驚く彩を見上げて、困ったように小首を傾げる。
「もう、怒ってない……よ、ね……?」
ダメだ。
犬に、負けた。完敗だ。怒っていたとしても、こんな表情を見せられたら全てがどうでもよくなる。
「……今でも怒っていたら、こんな所にのこのこ来たりはしないと思うけど」
「よ、よかった……!」
本気でほっとしたらしく、貴樹はふにゃりと相好を崩した。
黙っていればそこそこにカッコいい部類に入るだろうに、喋ったり笑ったりするだけでイメージが変わる。たぶん、彼はそれなりにもてるのだろうな、と、彩は思った。
だが、そんなもてる男が、何故、自分を食事に誘うのか。
先日の謝罪という理由があるにしても、それならば、何も個室でディナーでなくとも充分だ。
やがて料理が運ばれてくる頃になると、彩は何だか疲労感さえ覚えてしまう。従業員は仕事だからこっちが気にするほど人のことなど見ていないのだろうが、やはり、こんな個室でディナーというのは、気の張るものでしかない。
「……あれ、こういうの、嫌い?」
彩の様子に不安になったのか、またしても急にしょんぼりした声音になった貴樹が妙におかしくて、彩は慌てて首を横に振った。
「そういうわけではないの。ただ、こういう席って慣れていないから、緊張しちゃって」
「そうかなぁ。でも、彩さんは可愛いから、誰も気にしないと思うよ!」
「はあ?」
その切り返しは、意味がわからない。可愛いと言うのなら、犬っぽい貴樹の方がよほど可愛く見える。
おそらく、貴樹には悪気がないのだろう。純粋に褒めてくれているのだろうことは、わかる。
「……えっと、ごめんなさい」
「え、何で謝るの?」
「だって、俺、今、すごく不躾なことしたよね。本当は、彩さんがここに来てくれたことだって、俺は感謝しなくちゃならないのに、勝手にべらべら喋って……。何か変なこと考えているって思われちゃうかな、って」
「変なことって」
「誓って! そんなこと、ないから! 俺、自分が胡散臭い外見なのは知ってるし、たぶん、この前のことで彩さんには迷惑かけたから、俺のこと信用ならないって思われても仕方ないとは思ってる。でも、俺は、彩さんと友だちになりたいんだ。そういうのは、ダメ……ですか。あ、いや、その、えと、だから」
言い訳をしているうちに、自分でも何を言っているのかわからなくなってきたのだろう。貴樹は時折首を傾げながらも、懸命に言葉を重ねて来る。
その様子は、まるで宿題を忘れたことに対しての言い訳を一生懸命に考えている子供のようで、彩はまたしても噴き出してしまった。
「……あの、彩、さん……?」
「何だか、東城さん、最初とすごくイメージが違いますね」
「え、そ、そうですか?」
妙にそわそわとしとしている貴樹に苦笑する。何をそんなに慌てているのか、不思議でたまらない。こんな場所に呼び出されて二人きりになって、警戒して挙動不審になるとすれば、彩の方だというのに。
「最初はね、すごく頭が悪そうに見えましたから……その、あんな感じでしたし」
「ご、ごめんなさい」
「それは、それぞれに事情があることだから、別にいいんです。でも、あの時、いきなりフィギュアとか出したでしょう? それで、何だか怒っているのもバカバカしくなって来ちゃって」
「ふぉえ」
いきなり、貴樹が変な声を出す。どうやら、ワインでむせたらしい。だが、すぐに気を取り直したように口を開いた。
「あ、あれは、厳密に言うとフィギュアじゃなくて」
「は?」
何となく不穏な単語が飛び出してきたことに、彩は眉をひそめる。この会話のパターンは、大輔とのそれを思い起こさせる。彼が延々と大好きなあれそれについて語り、彩はハイハイとひたすら相槌を打って話を合わせるという微妙な苦行の。
大輔のことは好きだし、大事な幼馴染だ。彼の好きなものをバカにするつもりもないのだが、さすがにそればかり聞かされるのも疲れて来る。
スイート何とかというアニメは、大輔にとって大切な作品なのだ。あれは、彼がキャラクターをデザインしたものの中で初めてそこそこにヒットした作品で、彼はものすごく大事にしている。その愛情が行き過ぎて、時折、理解不能なほどに。貴樹の最初の反応からしてあれが好きなのは確かだろうから、大輔が知ったら小躍りして喜ぶに違いない。二人が揃ったら鬱陶しいことこの上なさそうだが。
「あ、いや、その」
彩の反応が気にかかったのか、貴樹は目に見えてうろたえた。大輔もそうだが、話はしたいが馬鹿にされたくはないという葛藤があるのだろう。