短編集
お比売様
「島子さん、暖かいねえ。春だよう」
縁台に腰かけているあずみの言葉にゆっくり頷いて、隣でお茶をすする島子。
鳴くよ、うぐいす。ほーほけきょ。
ではないが、冬の凍てついた寒気から解放され、ぬくぬくしてくる春は、誰もが待ち遠しい季節である。
「こんにちは。あなたが島子さま…ですね」
あずみは冷や汗を噴出した、なんとも見目麗しい高貴な娘が、島子を尋ねてきたのだ。
度肝を抜かれぬわけがなかった。
「どちらさまで」
「百田弓矢、と申します。以降お見知りおきを…」
「はて、ももたさん。どちらの百田さんでしょうね。ぼくは…」
「そのうち、わかりますわ」
娘はいたずらっぽく口もとを押さえて笑っている。
年の頃はあずみと同じくらいだった。
あずみのように気の強い蓮っ葉ではなさそうだったが。
春のぬくぬくモードが一気に吹き飛んで、豪雪が押し寄せてきてしまったので、あずみは機嫌をそこねてしまっていた。
「あなたが、あずみさんですね。お噂はかねがね」
「誰に聞いたってのよ…」
あずみは島子を鋭い視線で睨みつける。
「えっ、ぼくじゃないよ」
あせりすら見せて狼狽していた。
「じゃあ誰が、この人に言ったのよ。ほかに誰がいるの」
「こらこら、ケンカしないでちょうだい、おふたりさん」
と、ふたりの間に割って入って仲裁したのは、吉備津彦だ。
「皇子さま」
島子が驚いたように叫ぶ。
「皇子様、おそいですわ」
弓矢は甘えるようなしぐさで吉備津彦に寄り添った。
「悪い悪い。でも来るの早すぎ。誤解させてしまったな」
「そうみたいですね」
弓矢は肩をすくめて、あずみのほうに視線を送った。
「どうもすみません。ただ、皇子様のおともだちを一度みたかったんです」
「はあ」
「それは、どうも…」
あずみと島子は顔を見合わせて、小首を傾げるしかなかった。
「弓矢比売は、オレの婚約者」
「よろしくです」
吉備津彦は頬を赤らめながら、島子とあずみに弓矢の正体を明かした。
「ええっ。皇子、結婚するの」
あずみが意外そうにさけぶので、吉備津彦は眉をひそめてこういった。
「おいおい。オレも歳だし、そろそろ所帯を持ったっておかしくねえだろ」
「そういうもんかしら…」
あずみは頭をかきながら、必死に考えをまとめていた。
「そういうもんだ。あずみは、おてんばで、気が強くて、どうしようもないじゃじゃ馬だが、弓矢はしとやかな令嬢だぜ」
「じゃじゃ馬って…。まあ、いいんだけど…」
つっこんだのは、意外にも島子だった。
「ちょ、よくないじゃん。なにがね『まあ、いいんだけど』? 中途半端にかばったりしないで」
「や、やめろよ、弓矢ちゃんが見てる前で…」
吉備津彦は引きつった笑みを浮かべながら、島子とあずみを仲裁する。
そのようすを微笑みながら見つめていた弓矢だったが、少し切なそうだった。
「あずみさんって、とても美しいですのね。わたくしなんて霞んで見えましたもの」
弓矢の言い方は、まるで嫉妬しているような口調だった。
吉備津彦は夜伽をすませたばかりで熱を帯びた顔を手の甲でなでつけながら、弓矢を見据えていた。
「まるで…麻ぶすま(庶民の掛け布団)を押しつけられたように、ごわごわしてたのです、この心が」
「比売…」
「皇子は、あのかたが、お好きでしょ」
吉備津彦は大きく左右に頭を振って、否定する。
「うそ。隠したってわかります。あなたは、あの人が好きです」
「でもいまは、おまえの夫だぞ。それじゃダメかい」
弓矢は、息を呑んで我に返ると、皇子に謝った。
「ごめんなさい。どうかしていましたわ…あなたも、あずみさんも、悪くないのに」
吉備津彦は、心中複雑そうにして、弓矢の髪をなでていた。