Secret Lover's Night 【完全版】
たまたま空いていた隣のデスクに千彩を置き、その様子を気にかけながら晴人は与えられた仕事を熟していく。
昨日急遽休みを取ったぶん、決して事務所内で暇な時間を持て余しているわけではなかった。
そう、恵介とは違って。
「おい、おっさん。仕事はどないしてん」
「空き時間なので、お前の代わりにこうしてちーちゃんの面倒をみてるわけですよ」
「誰もそんなこと頼んでないんやけどなぁ?」
そう、「たまたま空いている」はずだった隣のデスクは、言わずもがな恵介のデスクで。幸か不幸か撮影と打ち合わせが一件ずつキャンセルになった恵介は、暇を持て余して千彩とオンラインゲームをして遊んでいたのだ。
「仕事をせぇよ、仕事を。何かあるやろ」
「んー?昼食ったら撮影あるから、それまで休憩」
「休憩?お前の勤務時間の何割が休憩時間や!今日かて遅刻したんちゃうんかい!だいたいなぁ…」
「そない怒ったら、またちーちゃんが怖がるでー?」
一気に捲し立て、ハッと出掛かった言葉を呑み込む。
案の定、マウスを握っていた千彩が硬直していて。ヤバイ…と、慌てて取り繕おうとしたけれど、時既に遅し。
「はる…ごめんね?」
「あー、違う。ごめん。俺がごめん」
「あーあ。おいで、マイエンジェル」
ニヤリと笑う恵介に苛立つものの、しゅんと肩を落とす千彩を前に怒鳴るわけにもいかず。思わずため息を零したくなるものの、それも叶わず。
八方塞がりの状態で額に手を当てて頭を支えていると、一度恵介の元へと行きかけた千彩が晴人のシャツの裾をギュッと握った。
「はるぅ?」
「んー。ごめん、ごめん」
「怒ったやーよって言うたれ」
「もうさぁ、お前は黙っとけ」
コロコロと椅子を引き寄せて頭を撫でてやると、そのまま腕に絡み付こうとする千彩が何とも可愛くて。これは一種の母性本能なのではないか…と、後頭部を引き寄せて額にピタリと頬を寄せた。
「なぁんだ。やっぱガキはガキ扱いなんじゃん」
カップがデスクに置かれる音と、そんな声が聞こえたのはほぼ同時だった。
思わず睨み上げそうになる晴人を、苦笑いを浮かべた恵介が「まぁまぁ」と窘めて声を掛ける。
「沙織ちゃんがコーヒー淹れてくれるなんか珍しいやん」
「だって、HALさんのソレが終わらないと撮影出来ないんだもん。だから邪魔しないでね、お嬢ちゃん」
ビクリと千彩の肩が揺れ、離すのに苦労するはずだった体が一瞬にして遠ざかる。そして、反対側にあった恵介の腕の中へとすっぽりと収まった。
そうなのだ。
確かにそうなのだけれど。
どうも言葉に棘があり過ぎて呑み込めない。
「やめようや、そうゆうの」
「なぁに?HALさんこの子庇うわけ?」
「邪魔してんのはKEIであってこの子とちゃう。これ以上俺の機嫌損ねるようなこと言うんやったら、今日の沙織ちゃんの撮影キャンセルするから」
そこまで言い終えて、恵介の肩口にピタリと額を付けている千彩の頭をゆっくりと撫でる。それにまでビクリと肩を揺らす千彩が、か細い声を押し出した。
「ごめん…なさい。ちさが居て…ごめんなさい」
その言葉に、晴人の中の何かが突如プツリと音を立てて切れた。
「おいで、ちぃ」
「イヤ…ごめんなさい」
「千彩」
「おっ…おい。ちーちゃん怖がってるから。な?」
「お前は黙っとけ。千彩は俺のや」
とうとう泣き出した千彩を恵介が庇おうとするも、晴人の怒りは最早どこに向いているかさえわからない状態で。椅子が倒れそうなくらいの勢いで席を立ち、千彩の手を強引に引いて抱き寄せた。
「お前のせいとちゃう。わかったか?」
「…ごめんなさい」
「ごめんなさいは要らん」
「ごめっ…」
言いかけた千彩の口を塞ぎ、じっと目を見つめる。そして、上司を振り返った。
「所長、ちょっとスタジオ使いますよ」
「おっ…おぉ」
「撮影キャンセルで。俺はもう二度と沙織ちゃんは撮りません」
「おいっ!」
「他にやらしてください。俺はもう彼女を綺麗に撮る自信が無い」
そう言い放ち、晴人は未だ涙を零す千彩の手を引いた。
そして、重苦しい音を立てて開くスタジオの扉を一気に押し開けて引き込み、そのまま鍵を閉める。
作り上げられた密室には、二人分の足音と千彩の泣き声がやけに大きく響いた。
もう既に撮影の準備が済んでいたそこは、大きなベッドの上に無数の白い羽根が散らばっていて。ふと千彩に向かって嫌な笑みを向けたモデルを思い出した。
「何が天使や、あほらしい!」
抑えきれなかった声に、千彩がグッと足を踏ん張った。そして、イヤイヤと首を振って悲痛な声を上げる。
「はる…はる、ごめんなさい。もうお仕事の邪魔しないから。ごめんなさい。ちさをほかさないで!」
叫びにも似たその声に、晴人はふと我に返る。慌てて引き寄せた千彩の体が、初めて会ったあの夜よりも震えていて。
グラリ、と目の前が揺れた。
「ごめん…なさい。ごめんなさい!」
酷い眩暈にも似たその感覚に耐え兼ねて、重い足を数歩進めて乱暴にベッドへと腰掛ける。引き寄せ、ギュッと腰を抱いた。
「ごめん、千彩。俺が悪かった。ごめん」
今にも消え入りそうなその声に、驚いて言葉を詰まらせたのは千彩で。
「俺は絶対お前を捨てたりせん。ずっと守ったるから」
いつも温かい眼差しを向けてくれる晴人の瞳は、涙で濡れていて。頬を伝うそれをどうにか止めようと、千彩は晴人の足の間にしゃがみ込み、そっと頬へと手を伸ばした。
「ちさね、ずっとはると一緒に居るよ?だから…はる…泣いたらイヤ…」
頬を伝う温かさに、思わず目を瞠る。何年ぶりに泣いただろう…と、それを拭おうとするも、ピタリと寄せられた千彩の手でそれは叶わず。
次第にその量を増やしていく涙を、成す術もなくただただ溢れさせた。
「はるは、ちさをほかさへんでしょ?だから、ちさははるから離れへん」
懸命に言葉を紡ぐ千彩が愛おしくて。そっと瞼を下ろし、優しく紡ぎ出される音を頭と心に刻み込む。
「約束するよ?ずっと一緒におるから」
だから、どうか泣かないで。
そう続けられた気がして。ゆっくりと瞼を持ち上げると、やはり同じように頬に筋を作る千彩が居た。
「おいで?俺が悪かった。不安にさせてごめんな?」
ギュッと抱き締め、そっと頭を撫でる。肩口がじんわりと温かく濡れていくのを感じながら、そっと頬を寄せた。
「ちぃは甘えん坊やからなぁ」
「はるは怒りん坊やん」
ぐすりと鼻を啜る千彩が、涙声で抗議する。そんな千彩の鬱陶しく掛る前髪をそっと撫で上げ、額へ、瞼へとキスを落とした。
擽ったそうに笑うその表情からは、もう涙の色は消えていた。
昨日急遽休みを取ったぶん、決して事務所内で暇な時間を持て余しているわけではなかった。
そう、恵介とは違って。
「おい、おっさん。仕事はどないしてん」
「空き時間なので、お前の代わりにこうしてちーちゃんの面倒をみてるわけですよ」
「誰もそんなこと頼んでないんやけどなぁ?」
そう、「たまたま空いている」はずだった隣のデスクは、言わずもがな恵介のデスクで。幸か不幸か撮影と打ち合わせが一件ずつキャンセルになった恵介は、暇を持て余して千彩とオンラインゲームをして遊んでいたのだ。
「仕事をせぇよ、仕事を。何かあるやろ」
「んー?昼食ったら撮影あるから、それまで休憩」
「休憩?お前の勤務時間の何割が休憩時間や!今日かて遅刻したんちゃうんかい!だいたいなぁ…」
「そない怒ったら、またちーちゃんが怖がるでー?」
一気に捲し立て、ハッと出掛かった言葉を呑み込む。
案の定、マウスを握っていた千彩が硬直していて。ヤバイ…と、慌てて取り繕おうとしたけれど、時既に遅し。
「はる…ごめんね?」
「あー、違う。ごめん。俺がごめん」
「あーあ。おいで、マイエンジェル」
ニヤリと笑う恵介に苛立つものの、しゅんと肩を落とす千彩を前に怒鳴るわけにもいかず。思わずため息を零したくなるものの、それも叶わず。
八方塞がりの状態で額に手を当てて頭を支えていると、一度恵介の元へと行きかけた千彩が晴人のシャツの裾をギュッと握った。
「はるぅ?」
「んー。ごめん、ごめん」
「怒ったやーよって言うたれ」
「もうさぁ、お前は黙っとけ」
コロコロと椅子を引き寄せて頭を撫でてやると、そのまま腕に絡み付こうとする千彩が何とも可愛くて。これは一種の母性本能なのではないか…と、後頭部を引き寄せて額にピタリと頬を寄せた。
「なぁんだ。やっぱガキはガキ扱いなんじゃん」
カップがデスクに置かれる音と、そんな声が聞こえたのはほぼ同時だった。
思わず睨み上げそうになる晴人を、苦笑いを浮かべた恵介が「まぁまぁ」と窘めて声を掛ける。
「沙織ちゃんがコーヒー淹れてくれるなんか珍しいやん」
「だって、HALさんのソレが終わらないと撮影出来ないんだもん。だから邪魔しないでね、お嬢ちゃん」
ビクリと千彩の肩が揺れ、離すのに苦労するはずだった体が一瞬にして遠ざかる。そして、反対側にあった恵介の腕の中へとすっぽりと収まった。
そうなのだ。
確かにそうなのだけれど。
どうも言葉に棘があり過ぎて呑み込めない。
「やめようや、そうゆうの」
「なぁに?HALさんこの子庇うわけ?」
「邪魔してんのはKEIであってこの子とちゃう。これ以上俺の機嫌損ねるようなこと言うんやったら、今日の沙織ちゃんの撮影キャンセルするから」
そこまで言い終えて、恵介の肩口にピタリと額を付けている千彩の頭をゆっくりと撫でる。それにまでビクリと肩を揺らす千彩が、か細い声を押し出した。
「ごめん…なさい。ちさが居て…ごめんなさい」
その言葉に、晴人の中の何かが突如プツリと音を立てて切れた。
「おいで、ちぃ」
「イヤ…ごめんなさい」
「千彩」
「おっ…おい。ちーちゃん怖がってるから。な?」
「お前は黙っとけ。千彩は俺のや」
とうとう泣き出した千彩を恵介が庇おうとするも、晴人の怒りは最早どこに向いているかさえわからない状態で。椅子が倒れそうなくらいの勢いで席を立ち、千彩の手を強引に引いて抱き寄せた。
「お前のせいとちゃう。わかったか?」
「…ごめんなさい」
「ごめんなさいは要らん」
「ごめっ…」
言いかけた千彩の口を塞ぎ、じっと目を見つめる。そして、上司を振り返った。
「所長、ちょっとスタジオ使いますよ」
「おっ…おぉ」
「撮影キャンセルで。俺はもう二度と沙織ちゃんは撮りません」
「おいっ!」
「他にやらしてください。俺はもう彼女を綺麗に撮る自信が無い」
そう言い放ち、晴人は未だ涙を零す千彩の手を引いた。
そして、重苦しい音を立てて開くスタジオの扉を一気に押し開けて引き込み、そのまま鍵を閉める。
作り上げられた密室には、二人分の足音と千彩の泣き声がやけに大きく響いた。
もう既に撮影の準備が済んでいたそこは、大きなベッドの上に無数の白い羽根が散らばっていて。ふと千彩に向かって嫌な笑みを向けたモデルを思い出した。
「何が天使や、あほらしい!」
抑えきれなかった声に、千彩がグッと足を踏ん張った。そして、イヤイヤと首を振って悲痛な声を上げる。
「はる…はる、ごめんなさい。もうお仕事の邪魔しないから。ごめんなさい。ちさをほかさないで!」
叫びにも似たその声に、晴人はふと我に返る。慌てて引き寄せた千彩の体が、初めて会ったあの夜よりも震えていて。
グラリ、と目の前が揺れた。
「ごめん…なさい。ごめんなさい!」
酷い眩暈にも似たその感覚に耐え兼ねて、重い足を数歩進めて乱暴にベッドへと腰掛ける。引き寄せ、ギュッと腰を抱いた。
「ごめん、千彩。俺が悪かった。ごめん」
今にも消え入りそうなその声に、驚いて言葉を詰まらせたのは千彩で。
「俺は絶対お前を捨てたりせん。ずっと守ったるから」
いつも温かい眼差しを向けてくれる晴人の瞳は、涙で濡れていて。頬を伝うそれをどうにか止めようと、千彩は晴人の足の間にしゃがみ込み、そっと頬へと手を伸ばした。
「ちさね、ずっとはると一緒に居るよ?だから…はる…泣いたらイヤ…」
頬を伝う温かさに、思わず目を瞠る。何年ぶりに泣いただろう…と、それを拭おうとするも、ピタリと寄せられた千彩の手でそれは叶わず。
次第にその量を増やしていく涙を、成す術もなくただただ溢れさせた。
「はるは、ちさをほかさへんでしょ?だから、ちさははるから離れへん」
懸命に言葉を紡ぐ千彩が愛おしくて。そっと瞼を下ろし、優しく紡ぎ出される音を頭と心に刻み込む。
「約束するよ?ずっと一緒におるから」
だから、どうか泣かないで。
そう続けられた気がして。ゆっくりと瞼を持ち上げると、やはり同じように頬に筋を作る千彩が居た。
「おいで?俺が悪かった。不安にさせてごめんな?」
ギュッと抱き締め、そっと頭を撫でる。肩口がじんわりと温かく濡れていくのを感じながら、そっと頬を寄せた。
「ちぃは甘えん坊やからなぁ」
「はるは怒りん坊やん」
ぐすりと鼻を啜る千彩が、涙声で抗議する。そんな千彩の鬱陶しく掛る前髪をそっと撫で上げ、額へ、瞼へとキスを落とした。
擽ったそうに笑うその表情からは、もう涙の色は消えていた。