Secret Lover's Night 【完全版】
右手に買い物、左手に千彩。
お揃いのキャップを被って、買い物を終えて二人でマンションまでの道のりを歩く。ご機嫌な千彩が、繋いだ手をぶんぶんと振りながら歌っている。


「おーててーつーないでー」


そして、ふと立ち止まり、晴人を見上げた。それを振り返り、晴人はキャップで隠れた眉の片方を器用にクイッと上げる。

「どした?」
「はるー、あのね?」
「ん?」
「大好きっ!」

一呼吸置いて、千彩が飛び付いた。それを慌てて受け止めて、晴人は笑う。

「ほーんまちぃは甘えん坊やな」
「はるー」
「はいはい。わかった、わかった」

よしよしとキャップ越しに頭を撫でてやり、指を絡め直して再びマンションへと足を進める。

ただ純粋に、どこまでも素直に「大好き」だと言い、甘えてくれる。
大人特有の駆け引きも嫌いではないけれど、こちらの方がはるかに心地好い。

そんなことを思いながら、ちょうど階段を上りきった時だった。ドアの前に立つ見慣れた女の姿に、思わずため息が洩れる。

「あー!また!」
「んー。ごめん、ごめん」
「はるの嘘つき!」

千彩のその声に、ドアの前に立っていた人物が振り返る。それに気付いた千彩がパッと晴人の背に回り、後方からギュッと腰を抱いた。

「ちぃ?」
「あの人…怖い人?」

ギュッと腰を抱く腕の力が強まり、晴人は苦笑いを零すしか出来なかった。そんな二人の姿に、今度は「怖い人」呼ばわりをされた人物がはぁーっとため息と吐く。

「何してんの、こんなとこで。ため息吐きたいのはこっちなんやけど」
「やっぱり…会って話がしたくて」
「わざわざ住所調べて?」
「…ごめんなさい」
「まぁええわ。どうぞ」
「いい…の?」
「そのつもりで来たんやろ?追い返してもええんやけど?」

鍵を開けるために足を進めると、腰に絡み付いた千彩も同じように足を進めて。俯いているのか、額と思われる固さが晴人の背にピタリと密着していた。

「ハル、その子…」
「ん?あぁ。ちぃ、家入ろ?」
「イヤ」
「ほな、ちぃだけそこおる?」
「イヤッ!」

慌てて顔上げた千彩が、力一杯否定の言葉を押し出す。そっと手を解き、晴人は少し屈んで千彩を覗き込んだ。

「ちょっとだけ。すぐ帰ってもらうから。な?」
「…うん」

千彩を宥めてドアを引き「どうぞ」と促すと、カツンとヒールが小気味よい音を立てた。

「お邪魔します」
「どーぞ」

振り返ると、屈んでサンダルを揃えている姿が見えて。ついでとばかりに散らばったままの千彩のサンダルに伸ばそうとした手を、「ええから」と言葉だけで制した。

「そこ座ってて。コーヒー淹れる」
「あっ、私コーヒー飲めない…」
「え?あぁ、そうやったっけ」
「別れた途端、そんなことも忘れちゃうんだね」

悲しそうに笑うその人物は、確かに自分の恋人だった人物で。グラスに千彩用に買ったオレンジジュースを注ぎながら、晴人は苦笑いを零す。

「はるっ、ちさはコーヒー!」
「えー?お前には苦いからあかんって」
「ちさは飲めるっ!」
「こっちにしとき。な?」
「飲める!」

そう言って駄々をこねる千彩は、ソファに座る人物をあからさまに敵視していて。膨れた頬をそっと撫ぜてやると、ペタリと胸に擦り寄った。

「ハル、やっぱり私…」
「帰るんか?わざわざ乗り込んで来たのに?」
「そんなつもりじゃ…」
「とか言うて、こいつ見に来たんやろ?ほら、この通りや。沙織ちゃんの言うてた通りのガキやで」

被ったままだった千彩のキャップを奪い取り、晴人は顔を見せてやろうとするのだけれど、当然ながら千彩はそれを嫌がって。ふいっと顔を背けると、その場にしゃがみ込んだ。

「あーあ。拗ねてもて。ごめんな、ちょっと跨ぐで?」

ひょいと千彩を跨ぎ、コーヒーカップとグラスをそれぞれの手に持ってソファへと歩み寄る。グラスを手渡し、カップはカウンターへ。
そして、キッチンの入り口にペたりと座り込んだままの千彩に晴人は両手を伸ばした。

「ちぃ、おいで?」

優しくそう声をかけると、窺い見るようにチラリと視線を寄越した千彩が、不安げに眉尻を下げた。更に優しく「千彩?」と呼ぶと、うんと腕を伸ばして無言の瞳が訴えかける。

「おいで、千彩」
「んー」
「はいはい。いーこいーこ」

抱き寄せ、長い髪を梳いてやる。すると、気持ち良さそうに目を細めた千彩が首元に擦り寄って来る。それが好きだった。

「さぁ。落ち着いたことやし話聞きましょか、リエさん」
「あの…私…」

千彩を腕に抱いたままの晴人を見遣り、リエは言葉を失った。

自分に対してもこんな風だっただろうか?と思い出そうとしても、どこにもそんな姿は無くて。目の前に居る人物は本当に自分の恋人だった男だろうか…と、目を疑いたくなった。

「そんな優しい顔するんだね」
「ん?そうか?」
「私には…してくれなかった」
「そんなことないと思うけどな」
「ううん。ハルはいつもどこか違うところ見てるみたいな目してて…私、いつも不安だった。誰かに…盗られちゃうんじゃないか…って」

俯いたリエが、ポツリ、ポツリ、と漏らすように言葉を押し出す。
落ち着いた千彩をカウンターチェアに座らせて、その言葉を聞きながら晴人はカチリとタバコに火を点ける。その音に顔を上げたリエが、とうとう涙を零し始めた。

「タバコ…吸うんだ」
「知らんかった?匂いで気付いてたと思ってたわ」
「私ハルのこと何も知らなかった…」
「知ってるやん。キスで始めて腕枕で終わるとこまで、全部」
「そうゆうのじゃ…なくて」
「じゃあ、何?この子は知らんよ?そうゆうとこ」

意地悪く笑いながら、晴人はふぅっと白い煙を吐き出す。その姿を見つめていた千彩が、突然ぷっと噴き出した。

「こらこらー。笑うとこちゃうやろ?」
「だって、はるおかしいもん」
「おかしいことあらへんわ」
「ちさにはそんな意地悪なこと言わへんもん」

嬉しそうに笑う千彩に、晴人は「あぁ、こいつも女やな」と痛感する。これが女の戦いというやつだろうか。
こんなにも年齢差のある戦いは、今まで目の当たりにしたことは無いけれど。

「おねーさん、はるのこと好き?」

不意に問われ、リエは口篭もる。肯定したいけれど、真っ直ぐに自分を見つめる千彩の瞳がそれを許してはくれなさそうで。
スッと視線を逸らし、小さくコクリと頷いた。

「好き?でも、ちさははるのこと大好き」

ぴょんと飛び降りた千彩が、リエの前へと駆け寄る。そして、大きく息を吸って声を張り上げた。


「ちさのはるとはおねーさんにはあげへん!」


両手をギュッと下で握り締め、千彩はふるふると震えている。それが精一杯の抵抗なのだと理解した晴人は、背中からそっと抱きしめて耳元で囁いた。

「そうや。千彩の晴人やで」

頬を寄せ、スリスリと擦り寄る。千彩の小さなヤキモチが、素直に嬉しくて。それに安心したのか、千彩はふぅっと息を吐いて硬くしていた体を晴人の胸に預けた。

「名前…ハルトって言うの?」
「あぁ、本名。KEIくらいしか呼ばんし、プライベートでしか呼ばせんから知ってる人少ないけどな」
「そんなことまで…」
「訊かれんかったから、敢えて自分からは言わんかっただけ」
「私…そんなことまで知らなかった…」
「大人やん?俺ら。わかるやろ?泣かれてもどうしようもないんやわ。頼むからこれ以上は言わせんといてや」

冷たく見下ろす晴人の目に耐え兼ね、リエはギュッと手を握り締めた。
そっとそこに触れた白い指先は、千彩。晴人の腕をすり抜け、千彩はリエに手を伸ばしていた。

「おねーさん」
「は…い」
「おねーさんにはパパとママおる?」
「いるわ」
「友達は?」
「ええ、いるわ」
「ちさにはおらんよ、どっちも」
「え…?」
「ちさにははるしかおらんの。だからおねーさんにあげられへん。ごめんね?」

ほらな?と、思わず口を突いて出そうになる。思った通り、望む通りのことを言ってくれる、と。

「悪いんやけど、もう帰ってくれる?しんどい、そうゆうの」
「ごめん…なさい」
「ええから。もう会うことも無いやろし」
「仕事は?仕事はどうするの?」
「俺、もうリエは撮らへんよ」
「でもっ!」
「自分を捨てた男の前で脱げるか?無理やろ?」
「それは…」
「俺の前で脱げんモデルに用は無い。もうこれで終わりにしようや」

グッと引き寄せ、唇を重ねる。首元に巻き付こうとする腕を制し、「これでバイバイな?」と突き放した。

飛び出して行ったリエが残したのは、大人の女の甘い残り香だった。
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