Secret Lover's Night 【完全版】
静かな部屋に、チクタクと時計が時を刻む音だけが響く。
準備のために先にスタジオに行ってしまったメーシーが抜け、当事者三人だけの空間。あまりの重苦しさに耐え兼ね、ちょこんと隣に座る千彩の髪へと手を伸ばした。
「はるー?」
「ん?」
「ちさがはるの家におったら迷惑?」
「俺、そんなこと言うた?」
「でも、おにーさまはさっきそう言った」
しゅんと肩を落とし、千彩は声をくぐもらせる。また泣き出すのではないか…と、晴人は内心気が気ではない。
今からでは、撮影が迫っているため宥める時間が十分に取れない。きちんと宥めないままでこの甘えん坊が離してくれるはずがないことは、自分が一番よく知っている。そう思い、ふと思考を止める。
いや、違う。
自分はこの人の代わりだったのではないか?
だからあんなにも甘えてきたのではないか?
止めたはずの思考は、コロコロと悪い方へと転がり落ちた。
「ちー坊、何で俺と帰るんが嫌なんや?」
「だって…おにーさまお仕事で帰って来ない日の方が多いもん。はるは毎日帰って来る」
「お仕事な、もう東京でせんでええようなったんや。いっぱいお仕事したから、前よりええ家住めるで?ボスも逝ってもうたし、もうあっち帰ろうや」
「ボス…」
グスリと鼻を啜り、千彩が俯く。頭を撫でてやることくらいしか出来ない晴人は、じっと黙ってその横顔を見つめていた。
「ボス…ちさボスのこと大好きやった」
「せやな。いっぱい遊んでもろたもんな」
「うん。ボス、ちさのお友達やって言ってくれた。ボスがお友達になってくれるって」
「せやな。ちー坊には大事なお友達やったな」
ちさにはおらんよ、どっちも。
ふとそんな言葉が蘇る。この少女は、親も友達も、本当に何も持っていなかったと改めて知る。
「ちぃ、学校は?」
「ちさ、学校行ってない」
「そっか…」
自分の家庭環境は、比較的恵まれていた。当たり前に学校へ通い、専門学校まで出してもらった。
けれど、今目の前にいる少女はそれが叶わなかった。そんな不条理な現実に、ズキンと胸の奥が痛む。
「母親がこいつ産んだんは、今のこいつより二つほど若い時でね。せやからガキがガキ育てとるようなもんで、何もわかっとらんかったんですわ」
ははは。と、吉村が笑う。それがどこか寂しげで。
切なくなりながら見つめる晴人に、吉村は続けた。
「俺が知り合うたんは25になる前やったんですけど、その時にはもうあかんようなってました」
「あかんようって…」
「酒の飲み過ぎでね。お恥ずかしい話です」
「あぁ…」
千彩は、晴人が酒を飲むことを嫌った。缶ビールの一本くらいならば何も言わないけれど、二本、三本となると段々と拗ね始める。
恵介の話を信じていなかったわけではないのだけれど、どこか軽く考えていた自分に腹が立つ。
「学校にも行かせてやれんでね、こいつにはほんまに不憫なことしました。勉強なんかロクにさせてないもんやから、ほら…この通りですわ」
「吉村さんは…いつから千彩と?」
「初めて会うたのは、こいつが10歳になる前でした。メシもロクに食わせてもらえてないような、ちっちゃいちっちゃいガキでね。よぉここまで大きなってくれたもんで…」
感慨深げに千彩を見つめるその目は、どこからどう見ても父親の目で。慈しむような優しい視線に、愛情の深さを感じさせられる。
「お母さんが亡くなってからは、吉村さんが?」
「ええ、そうです。せや言うても俺も仕事ばっかでね。俺の親代わりになってくれてた人が殆ど面倒みてくれとったんです。もう亡くなってもうたんですけど。こんな…傷もんにされてもうて…」
目頭を押さえる吉村に、千彩がコテンと首を傾げる。
「きずもん?はる、きずもんって何?」
「ん?汚されたとか…そんなんかな?」
「ちさ?ちさ汚い子?昨日ちゃんとお風呂入ったよ?」
「んー…そうゆう意味やなくてな」
「あほ!ちー坊が汚いわけあるか!」
「だっておにーさまそう言ったやん」
「それは…その…」
難しい言葉や微妙なニュアンスが千彩に伝わらないのは、学んでこなかったから。それがわかっただけでも進歩なのだ。と、晴人は無理矢理自分を納得させた。
準備のために先にスタジオに行ってしまったメーシーが抜け、当事者三人だけの空間。あまりの重苦しさに耐え兼ね、ちょこんと隣に座る千彩の髪へと手を伸ばした。
「はるー?」
「ん?」
「ちさがはるの家におったら迷惑?」
「俺、そんなこと言うた?」
「でも、おにーさまはさっきそう言った」
しゅんと肩を落とし、千彩は声をくぐもらせる。また泣き出すのではないか…と、晴人は内心気が気ではない。
今からでは、撮影が迫っているため宥める時間が十分に取れない。きちんと宥めないままでこの甘えん坊が離してくれるはずがないことは、自分が一番よく知っている。そう思い、ふと思考を止める。
いや、違う。
自分はこの人の代わりだったのではないか?
だからあんなにも甘えてきたのではないか?
止めたはずの思考は、コロコロと悪い方へと転がり落ちた。
「ちー坊、何で俺と帰るんが嫌なんや?」
「だって…おにーさまお仕事で帰って来ない日の方が多いもん。はるは毎日帰って来る」
「お仕事な、もう東京でせんでええようなったんや。いっぱいお仕事したから、前よりええ家住めるで?ボスも逝ってもうたし、もうあっち帰ろうや」
「ボス…」
グスリと鼻を啜り、千彩が俯く。頭を撫でてやることくらいしか出来ない晴人は、じっと黙ってその横顔を見つめていた。
「ボス…ちさボスのこと大好きやった」
「せやな。いっぱい遊んでもろたもんな」
「うん。ボス、ちさのお友達やって言ってくれた。ボスがお友達になってくれるって」
「せやな。ちー坊には大事なお友達やったな」
ちさにはおらんよ、どっちも。
ふとそんな言葉が蘇る。この少女は、親も友達も、本当に何も持っていなかったと改めて知る。
「ちぃ、学校は?」
「ちさ、学校行ってない」
「そっか…」
自分の家庭環境は、比較的恵まれていた。当たり前に学校へ通い、専門学校まで出してもらった。
けれど、今目の前にいる少女はそれが叶わなかった。そんな不条理な現実に、ズキンと胸の奥が痛む。
「母親がこいつ産んだんは、今のこいつより二つほど若い時でね。せやからガキがガキ育てとるようなもんで、何もわかっとらんかったんですわ」
ははは。と、吉村が笑う。それがどこか寂しげで。
切なくなりながら見つめる晴人に、吉村は続けた。
「俺が知り合うたんは25になる前やったんですけど、その時にはもうあかんようなってました」
「あかんようって…」
「酒の飲み過ぎでね。お恥ずかしい話です」
「あぁ…」
千彩は、晴人が酒を飲むことを嫌った。缶ビールの一本くらいならば何も言わないけれど、二本、三本となると段々と拗ね始める。
恵介の話を信じていなかったわけではないのだけれど、どこか軽く考えていた自分に腹が立つ。
「学校にも行かせてやれんでね、こいつにはほんまに不憫なことしました。勉強なんかロクにさせてないもんやから、ほら…この通りですわ」
「吉村さんは…いつから千彩と?」
「初めて会うたのは、こいつが10歳になる前でした。メシもロクに食わせてもらえてないような、ちっちゃいちっちゃいガキでね。よぉここまで大きなってくれたもんで…」
感慨深げに千彩を見つめるその目は、どこからどう見ても父親の目で。慈しむような優しい視線に、愛情の深さを感じさせられる。
「お母さんが亡くなってからは、吉村さんが?」
「ええ、そうです。せや言うても俺も仕事ばっかでね。俺の親代わりになってくれてた人が殆ど面倒みてくれとったんです。もう亡くなってもうたんですけど。こんな…傷もんにされてもうて…」
目頭を押さえる吉村に、千彩がコテンと首を傾げる。
「きずもん?はる、きずもんって何?」
「ん?汚されたとか…そんなんかな?」
「ちさ?ちさ汚い子?昨日ちゃんとお風呂入ったよ?」
「んー…そうゆう意味やなくてな」
「あほ!ちー坊が汚いわけあるか!」
「だっておにーさまそう言ったやん」
「それは…その…」
難しい言葉や微妙なニュアンスが千彩に伝わらないのは、学んでこなかったから。それがわかっただけでも進歩なのだ。と、晴人は無理矢理自分を納得させた。