Secret Lover's Night 【完全版】
ズッと鼻を啜る吉村が、ふと視線を泳がせる。それを追うと、待ち焦がれていた姿が見えた。
「千彩っ」
思わずガタンと立ち上がり、その声に駆け寄って来る愛しさを抱き留めた。そうするだけで、いとも簡単に気分は落ち着くのだ。自分でも不思議で仕方がない。
「な?ちゃんと約束通り迎えに来たやろ?」
「うん」
「何泣いてんの?」
「はるぅ」
「大好きやから泣かんといて。な?」
こうして千彩がぐずる度、抱き締めて大好きだと伝えてきた。瞼にキスを落とし、スリスリと頬を寄せる。それもいつものことだ。
「ちさ、はると一緒におってもいい?」
「ええよ」
「はるのこと大好きでいてもいい?」
「当たり前やろ」
「おにーさまいいって言った?」
「それは…」
チラリと振り返ると、涙を拭いた吉村が手招きをして千彩を呼び寄せる。それに応じるように促し、千彩を吉村の隣へと座らせた。
「けーちゃん!めーしー!迎えに来てくれてありがとう!」
嬉しそうに笑う千彩に、二人の友人も笑顔で手を振る。
けれど、そんな千彩の笑顔も、目を真っ赤にした吉村を前にした途端消え失せた。
「おにーさまどうしたん?なんで泣いてるん?悲しいの?」
「いいや。これは嬉しいんや」
「嬉しいの?」
「そうや。嬉しいんや」
くしゃりと千彩の髪を撫でる吉村は、とても愛おしそうに目を細めていて。そんな姿に、チクリと胸の奥が痛んだ。
「ちー坊、ハルさんのこと好きか?」
「うん!はるも、けーちゃんも、めーしーもみんな大好き!」
「そっか…そうやな」
「おにーさま?」
「おにーさまはちー坊が大好きや」
「ちさもおにーさま大好き」
甘えてピタリと寄り添った千彩が、「でもね…」と遠慮気味に言葉を続けた。
「ちさ、はるのほうがもっと大好き。だからはると一緒にいてもいい?」
「ちー坊、あのな?」
「あかん?」
「あかんことはないんやけどな…」
「んー?どっち?」
うるうる瞳を潤ませる千彩に覗き込まれ、吉村は口を噤んでしまう。
あぁ、それよくあるわ。何も言えなくて当然だ。と、向かい合った三人はそれぞれに思う。
「あんな、ちー坊」
「ん?」
「大人の世界はな、ちー坊が思っとるように簡単にはいかんのや」
「大人の世界?」
「せや。ハルさんはちー坊と違って大人なんや。せやから、ルールがいっぱいあるんやで」
「ルール?約束?」
「そうそう。約束や」
首を傾げた千彩の頭を優しく撫で、吉村は少し強めの視線を晴人に向ける。少しヒヤッとした。まだ結婚は…今はまだ難しいぞ、と。
「ハルさん」
「…はい」
吉村の低く太い声に、その場に一気に緊張が走った。名指しされた晴人は勿論のこと、恵介やメーシーまでもがピンと背筋を伸ばして吉村の次の言葉を待っている。
「一つだけ…一つだけオヤジの我が儘聞いてもらえませんやろか?」
「我が儘?」
「年が明けて二月になったら、こいつの誕生日が来るんですわ。それで18になります」
「はい」
「それまで…どうかそれまで。18になるまで俺に千彩を育てさせてください。お願いします」
勢い良く頭を下げられ、晴人は戸惑った。今はまだ、夏も始まったところ。二月までとなれば、あと半年以上もある。一秒たりとも放したくないと言うのに、それを半年以上も離れろと言うのか。酷過ぎる。
けれど、情けなく眉尻を下げて顔を上げた吉村の表情に、晴人はそんな思いを呑み込まざるを得なくなった。
一つ深呼吸をし、晴人は「わかりました」と短く答えた。が、やはりそれに異議を唱えたのは、その心境を理解出来ていないだろう千彩で。
「イヤ!ちさはるとおる!」
「ちー坊、ええ子やから。な?」
「ちさはイヤ!」
限界ギリギリまで目に涙を溜めた千彩が、イヤイヤと首を大きく振る。それに伴い、ポタリ、ポタリ、と紺色のキュロットに涙の染みが出来た。
そんな千彩を宥めようと吉村は必死に言葉を掛けるけれど、どれもこれもが裏目に出てしまって。わんわんと泣き始めた千彩を宥めようと椅子を引いた晴人を、「任せて」とメーシーが制した。
「姫」
「めーしー!ちさイヤ!はるとおりたい!」
「それはわかるんだけどね。ちょっとだけ俺の話聞いてくれる?」
そっと髪を撫ぜられ、千彩はコクリと頷いて顔を上げた。素直なその反応に、メーシーはゆるりと目を細めて笑む。
「さっきお兄様が言ったよね?大人には大人のルールがあるって」
「…うん」
「そのルールをね、王子は守ろうとしてるんだ。大人だから。わかる?」
「ルール…」
「王子だってね、姫と離れるのは嫌なんだよ?だって王子、姫のこと大好きなんだから」
ね?と話を振られ、咄嗟に頷く。千彩に甘いだけの自分や恵介とは違い、メーシーの話ならば千彩も納得してくれるかもしれない。そう思い、フェミニストを誇るこの友人に任せることにした。
「王子はね、姫が大好きなんだ。俺だって、ケイ坊だってそうだよ?」
「ちさも…大好き。だから…」
「だからね、俺達はルールを守らなきゃなんないんだ。守らなきゃ、もう二度と一緒に居られなくなるからね」
「二度と?ずっと?」
「そう。ずっとだよ?その方が嫌でしょ?これでお別れになっちゃう」
「イヤ!そんなんイヤ!」
「だったら、少しだけ我慢しよう?半年なんてすぐだよ。その間に、料理もメイクもいっぱい勉強して、王子がびっくりするくらい綺麗になっちゃいなよ。ね?」
「はる…」
縋るように見つめられ、ズキンと胸が痛む。けれど、せっかく説得しようと頑張っている友人の努力を無駄にするわけにはいかない。
普段よりも更に優しい笑顔を作り、晴人は千彩に頬笑みかけた。それを見て、諦めたように小さく千彩が頷く。
「姫はイイコだね。大好きだよ」
「めーしー…」
ギュッとメーシーに抱き付き、千彩はグスリと鼻を啜る。そして、それを見ていた隣の恵介も。
「…オイ。何お前まで釣られて泣いてんねん」
「だって…ちーちゃん…」
「ガキか、お前は」
「ホント、ケイ坊は姫と大差ないね」
二人に呆れられ、恵介はバツが悪そうにゴシゴシと乱暴に目を擦る。そして、ゆっくりと千彩に語りかけた。
「ちーちゃん、俺ら帰って来るん待ってるからな?」
「けーちゃん…」
「ちーちゃん…」
やはり、一度緩みきった恵介の涙腺は、そうそう締まることはなくて。ボタボタと涙を落としながら、ギュッと膝の上で手を握り締めている。そんな恵介の背中を摩りながら、晴人は「あーあ」と小さく零す。
これでは俺が泣けないではないか、と。
「千彩っ」
思わずガタンと立ち上がり、その声に駆け寄って来る愛しさを抱き留めた。そうするだけで、いとも簡単に気分は落ち着くのだ。自分でも不思議で仕方がない。
「な?ちゃんと約束通り迎えに来たやろ?」
「うん」
「何泣いてんの?」
「はるぅ」
「大好きやから泣かんといて。な?」
こうして千彩がぐずる度、抱き締めて大好きだと伝えてきた。瞼にキスを落とし、スリスリと頬を寄せる。それもいつものことだ。
「ちさ、はると一緒におってもいい?」
「ええよ」
「はるのこと大好きでいてもいい?」
「当たり前やろ」
「おにーさまいいって言った?」
「それは…」
チラリと振り返ると、涙を拭いた吉村が手招きをして千彩を呼び寄せる。それに応じるように促し、千彩を吉村の隣へと座らせた。
「けーちゃん!めーしー!迎えに来てくれてありがとう!」
嬉しそうに笑う千彩に、二人の友人も笑顔で手を振る。
けれど、そんな千彩の笑顔も、目を真っ赤にした吉村を前にした途端消え失せた。
「おにーさまどうしたん?なんで泣いてるん?悲しいの?」
「いいや。これは嬉しいんや」
「嬉しいの?」
「そうや。嬉しいんや」
くしゃりと千彩の髪を撫でる吉村は、とても愛おしそうに目を細めていて。そんな姿に、チクリと胸の奥が痛んだ。
「ちー坊、ハルさんのこと好きか?」
「うん!はるも、けーちゃんも、めーしーもみんな大好き!」
「そっか…そうやな」
「おにーさま?」
「おにーさまはちー坊が大好きや」
「ちさもおにーさま大好き」
甘えてピタリと寄り添った千彩が、「でもね…」と遠慮気味に言葉を続けた。
「ちさ、はるのほうがもっと大好き。だからはると一緒にいてもいい?」
「ちー坊、あのな?」
「あかん?」
「あかんことはないんやけどな…」
「んー?どっち?」
うるうる瞳を潤ませる千彩に覗き込まれ、吉村は口を噤んでしまう。
あぁ、それよくあるわ。何も言えなくて当然だ。と、向かい合った三人はそれぞれに思う。
「あんな、ちー坊」
「ん?」
「大人の世界はな、ちー坊が思っとるように簡単にはいかんのや」
「大人の世界?」
「せや。ハルさんはちー坊と違って大人なんや。せやから、ルールがいっぱいあるんやで」
「ルール?約束?」
「そうそう。約束や」
首を傾げた千彩の頭を優しく撫で、吉村は少し強めの視線を晴人に向ける。少しヒヤッとした。まだ結婚は…今はまだ難しいぞ、と。
「ハルさん」
「…はい」
吉村の低く太い声に、その場に一気に緊張が走った。名指しされた晴人は勿論のこと、恵介やメーシーまでもがピンと背筋を伸ばして吉村の次の言葉を待っている。
「一つだけ…一つだけオヤジの我が儘聞いてもらえませんやろか?」
「我が儘?」
「年が明けて二月になったら、こいつの誕生日が来るんですわ。それで18になります」
「はい」
「それまで…どうかそれまで。18になるまで俺に千彩を育てさせてください。お願いします」
勢い良く頭を下げられ、晴人は戸惑った。今はまだ、夏も始まったところ。二月までとなれば、あと半年以上もある。一秒たりとも放したくないと言うのに、それを半年以上も離れろと言うのか。酷過ぎる。
けれど、情けなく眉尻を下げて顔を上げた吉村の表情に、晴人はそんな思いを呑み込まざるを得なくなった。
一つ深呼吸をし、晴人は「わかりました」と短く答えた。が、やはりそれに異議を唱えたのは、その心境を理解出来ていないだろう千彩で。
「イヤ!ちさはるとおる!」
「ちー坊、ええ子やから。な?」
「ちさはイヤ!」
限界ギリギリまで目に涙を溜めた千彩が、イヤイヤと首を大きく振る。それに伴い、ポタリ、ポタリ、と紺色のキュロットに涙の染みが出来た。
そんな千彩を宥めようと吉村は必死に言葉を掛けるけれど、どれもこれもが裏目に出てしまって。わんわんと泣き始めた千彩を宥めようと椅子を引いた晴人を、「任せて」とメーシーが制した。
「姫」
「めーしー!ちさイヤ!はるとおりたい!」
「それはわかるんだけどね。ちょっとだけ俺の話聞いてくれる?」
そっと髪を撫ぜられ、千彩はコクリと頷いて顔を上げた。素直なその反応に、メーシーはゆるりと目を細めて笑む。
「さっきお兄様が言ったよね?大人には大人のルールがあるって」
「…うん」
「そのルールをね、王子は守ろうとしてるんだ。大人だから。わかる?」
「ルール…」
「王子だってね、姫と離れるのは嫌なんだよ?だって王子、姫のこと大好きなんだから」
ね?と話を振られ、咄嗟に頷く。千彩に甘いだけの自分や恵介とは違い、メーシーの話ならば千彩も納得してくれるかもしれない。そう思い、フェミニストを誇るこの友人に任せることにした。
「王子はね、姫が大好きなんだ。俺だって、ケイ坊だってそうだよ?」
「ちさも…大好き。だから…」
「だからね、俺達はルールを守らなきゃなんないんだ。守らなきゃ、もう二度と一緒に居られなくなるからね」
「二度と?ずっと?」
「そう。ずっとだよ?その方が嫌でしょ?これでお別れになっちゃう」
「イヤ!そんなんイヤ!」
「だったら、少しだけ我慢しよう?半年なんてすぐだよ。その間に、料理もメイクもいっぱい勉強して、王子がびっくりするくらい綺麗になっちゃいなよ。ね?」
「はる…」
縋るように見つめられ、ズキンと胸が痛む。けれど、せっかく説得しようと頑張っている友人の努力を無駄にするわけにはいかない。
普段よりも更に優しい笑顔を作り、晴人は千彩に頬笑みかけた。それを見て、諦めたように小さく千彩が頷く。
「姫はイイコだね。大好きだよ」
「めーしー…」
ギュッとメーシーに抱き付き、千彩はグスリと鼻を啜る。そして、それを見ていた隣の恵介も。
「…オイ。何お前まで釣られて泣いてんねん」
「だって…ちーちゃん…」
「ガキか、お前は」
「ホント、ケイ坊は姫と大差ないね」
二人に呆れられ、恵介はバツが悪そうにゴシゴシと乱暴に目を擦る。そして、ゆっくりと千彩に語りかけた。
「ちーちゃん、俺ら帰って来るん待ってるからな?」
「けーちゃん…」
「ちーちゃん…」
やはり、一度緩みきった恵介の涙腺は、そうそう締まることはなくて。ボタボタと涙を落としながら、ギュッと膝の上で手を握り締めている。そんな恵介の背中を摩りながら、晴人は「あーあ」と小さく零す。
これでは俺が泣けないではないか、と。