Secret Lover's Night 【完全版】
家の前に着くと、駐車場に二台の車が見える。晴人から深いため息が漏れた。

「すみません。家の前に停めてもらえますか?どうも姉が来てるみたいなんで」

普段父親が乗っているシルバーのセダン車があること自体もおかしいけれど、その隣には真っ赤なミニワゴンが停まっている。それが嫁いで家を出た姉の車だ。

「ただいま、母さん」

インターフォンを押さずに門を開いて足を進めると、庭先で土を弄っていた母親がにっこりと微笑んだ。

「おかえり、晴人。今日はお兄さんも一緒?こんにちわ」
「こんにちわ。えらい長々とお世話になってすんませんでした」
「いえいえ。ちーちゃんなら今お姉ちゃんと買い物に行ってるわ。どうぞ上がって待っててください」
「もー。この時間に迎えに来る言うたのに」
「まぁええやないの」

タオルで手を拭きながら笑う母に促され、玄関の扉を開く。

「ただいまー」

靴を脱ぎながら声を掛けると、リビングに居ただろう父がひょっこりと顔を覗かせた。

「親父さん、お久しぶりです。えらい世話になってすんませんでした」
「おぉ、吉村君。仕事はもうええんか?」
「いや…ええことなかったんですけど、どうもちー坊の顔が見とぉなってしもて」
「ははは。まぁそんな時もあるわな」

自称「昔やんちゃだった」今はただの頑固親父な父と吉村はどうやら気が合うらしく、自分がいない間も何度か酒を酌み交わしている。

が、

目下の問題は、そんな自分の父親と千彩の父親との仲の良し悪しではない。何故平日のこんな時間に、普段着姿の父がリビングでコーヒーを飲みながら寛いでいるのか、だ。

「晴人、仕事はええんか?」
「今日はオフにしてんの。父さんこそ仕事は?」
「ん?有給や、有給休暇」
「何言うてんの。社長に有給もクソもあらへんやろ」

ドサッと荷物を置き、晴人はじとりと父親に視線を遣る。観念したのか、父が「参ったなぁ」と言いながら両手を小さく挙げた。

「父さんかてちーちゃん見送りたいやろ?」
「何がちーちゃんや。あれは俺のやからやらんぞ」
「俺のとか言うて逃げられるんちゃうんか?お前もうおっさんやぞ?」
「うっさいわ」

はははっ。と、吉村が笑い声を上げる。庭いじりを切り上げて二人分のコーヒーを運んで来た母も、それに釣られてクスクスと笑っていた。

「母さん、千彩の荷物揃えてくれてる?」
「うん。そこの和室に置いてるよ」

千彩が来て暫くしてから開けっ放しにするようになった和室の畳の上に、少し大きめのダンボール箱が二つ。それに思わず首を捻る。
邪魔になるだろうから。と、吉村はこっちへ来る時に持たせた荷物以外は持たせないと言っていた。けれど、自分の目の前にはダンボール箱が二つ。

「母さん…」
「お母さんちゃうよ?殆どお姉ちゃんとお父さん」
「おっさん…」
「ええやないか。あって困るもんやないし」
「はぁ…もうええわ。後で宅配で送って。くまは?どっちに入ってるん?」
「プリン君は…晴人の部屋にあるんちゃうかな?今朝まで一緒に寝てたから」
「ほな持って来とかな忘れるやん」

どこでも猫可愛がりされるのは良いことなのだろうけれど、これでまた洋服が増えた…と、クローゼットの中が少し不安になる。そして、伝えておかなければならないことを思い出した。

「せや、俺引っ越したんやわ。住所書くから母さん紙ちょうだい」
「はいはい、どうぞ」
「あと、くま取って来てくれる?あれ忘れたら大変や」
「せやね。はいはい」

パタパタと母のスリッパの音を聞きながら、晴人は二枚の紙にそれぞれ新しい住所を書いた。

以前よりも事務所に近い場所に、新しくマンションを借りた。千彩が戻って来る前に、と新居へ引っ越したのは、年が明けてからだ。

「えらいええとこやないか」
「まぁ、それなりに」
「わざわざちー坊のために引っ越しはったんですか?ほな、ちょっとでも家賃…」
「いやいや、大丈夫や吉村君。こいつ結構稼いでるらしいからな」
「ほんでも…」
「大丈夫ですよ。生活の面倒は僕が全部みますから」

お気に入りのマンションだったけれど、繁華街の近くだということが気にかかっていた。小さな子供ではないとは言え、このご時世では何があるかわからない。好奇心旺盛な千彩のことだから、ふらふらとどこかへ迷い込んでしまうかもしれない。そんな諸々の事情を考えると、引っ越しはやむを得なかった。

「結婚はいつするんや?」
「いや、まだせんから。何回も言わすなや」
「そうよ、お父さん。急かしたって仕方ないでしょ」

取ってきた千彩のお気に入りのぬいぐるみを差し出しながら、母はやれやれと肩を竦めていて。何とも気が早い…と、我が父親ながらため息も吐きたくなる。

「そんなこと言うとる間に捨てられても知らんぞ」
「いや、縁起でもないこと言いなや」
「都会は怖いからなぁ」
「もうええから」

そもそも、出会って一週間で結婚を決めてしまった自分もどうかと思っているのだ。迷いがあるわけでも後悔しているわけでもないけれど、晴人自身もやはり先のことはわからない。

「料理もいっぱい勉強したし、楽しみやね」
「まぁ、家事は俺も出来るし別にええんやけどな」
「そんなん言わんとやらしてあげて。楽しみにしてるんやから」

窘められ、思わず苦笑いが零れた。それを隠すようにギュッとぬいぐるみを抱き締めると、千彩の匂いがする。グッと胸の奥が締め付けられるような感覚に、晴人は思わず眉根を寄せた。

「遅くない?どこまで行ってんの?」
「歩いて行ってるから、そこのショッピングモールとちがうかなぁ」
「妊婦の運動に付き合わせたわけやな」
「そうかもねぇ」

妊娠中の姉は、こうして度々帰って来ては千彩を買い物に連れ出している。妹を欲しがっていた姉のことだから、色々と買い与えるのも仕方がないか…と、漸くダンボール箱二つ分の荷物に諦めがついた。


「ただいまー!」


ガチャリと開いた扉の音と、元気な千彩の声が重なる。ドクンと大きく心臓が跳ね上がり、堪らずぬいぐるみを放り出し晴人は玄関へと足を急がせた。

「おかえり、ちぃ」
「はるー!」

ギュッと腰に巻き付く千彩の頭をよしよしと撫でながら、玄関に置かれた二つの紙袋をチラリと見遣る。それに「あははは」と少し目を泳がせた姉の有紀に、晴人は思いっきり顔を顰めてみせた。

「そない怒らんでも…」
「別に怒ってへんわ。はよ入れば?」
「はいはい。すいませんねー」

よいしょと足を上げる有紀に手を貸しながら、転ばないようにサッと後に回って背中を支える千彩を見て思う。随分と大人になったな、と。

「ちぃ、キスは?」

リビングに入って行く有紀を見送り、二人だけの空間で強請る。すると、少しはにかんだ千彩が、一度小さく肩を竦めて首元に巻き付いた。

「おかえり、はると」

それだけで、十二分に心は満たされる。幸せだ…と、約二週間ぶりの再会を噛み締めた。
< 57 / 64 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop