オセロ風景〜坂道と図書室
白と黒
伊藤菜々は──恋に落ちた。
高校の夏休みの宿題に、読書感想文なるものの提出が義務付けられ、彼女は学校の図書室に、しぶしぶ足を運んだ。
昨日から、夏休みに入ったばかり。
このあと、部活に参加することになっている。
菜々は、陸上部の長距離ランナーだった。
すなわち、体育会系である。
色黒でショートカットで、しとやかさのかけらもない菜々は、自分ほど図書室と無縁な存在はないと思っていた。帰宅部のヤンキーと、タイマンを張れるレベルだろう。
その予感は的中した。
棚に並ぶ背表紙の文字全てが、彼女を拒絶しているように思えたのだ。
読もうと思うのに、さっぱり文字が頭に入ってこない。
友人と一緒に来ればよかったと、菜々は激しく後悔していた。
しかし、高校に入って出来た一番仲のいい友人ときたら、綺麗な顔してキツイ言葉をズバズバと口に出す女傑で、おそらく本を選び取ろうとする度に、その本に対する厳しい意見を吐いてくださるに違いなかった。
先日も、図書室から借りた本について、『全く文学を分かっていない、品性のない作品だったわ』と、憤慨していた。
その本のちんぷんかんぷんなタイトルと、ぱらっと開いて見せてもらった文章の固さは、菜々をドン引きさせたのだ。
私の近づいてはならない世界だ、と。
そんなわけで、友人に知られない内に、ささっと軽そうな本を選んで借りよう。出来るだけ、あらすじが簡単そうなものがいい。
そう思っていた菜々は、図書室の棚を前に、あーとか、うーとか唸る羽目になった。
そんな彼女の耳に。
「探し物?」
静かな声がかけられた。
冷房のない図書室は、窓が開け放たれていて、ぬるい風が吹き込んでいる。
その風の向こう側に、その人はいた。
夏服の白いシャツとは違う、白い肌。
背は高いけど痩せていて、ちゃんと食事を取っているのか、少し心配になる身体つき。
ちらりと見た、シャツの胸ポケットに縫われている校章の色から、ひとつ上の二年生であることが分かった。
細い銀縁の眼鏡から覗く黒い瞳は穏やかで、菜々の第一印象は「頭いいんだろうな」というものだった。
「あっ、あの……読書感想文に向いてそうな、あんまり難しくない本ってないですか?」
菜々は、大人しい人間ではない。
運動部は、コミュニケーションを大事にするところでもあり、挨拶や会話はしっかりと身に付けさせられている。
要するに、物怖じしない性格だったため、多少恥ずかしいとは思いながらも、この図書室の住人に助けを求めたのだ。
「ああ……読書感想文か。それなら……」
眼鏡の二年生は、すたすたと静かな足取りで本棚の林の奥へと歩いていく。
高い位置に伸ばされた長い指が、少しさまようように動いたかと思うと、一冊の本を抜き出す。
「これなんか、どうかな」
そう言って、菜々に差し出したのは、『太宰治全集3』という本だった。
タイトルからして、腰が引けかけた菜々に、「この中の、これなんか短くて読みやすいと思うよ」と、彼は本を開いて目次を見せてくれる。
彼が指し示していた先に書かれていた文字は──『走れメロス』だった。
こ、このタイトルは!
本とは無縁の菜々であっても、聞いたことのあるものだった。
そして、奇跡と言うべきか、うっすらと内容も覚えていたのである。
中学の時の国語の教科書に載っていたそれは、ほんの一瞬だけ、菜々の心を捉えたことがあったのだ。
中学時代もマラソンをしていた彼女には、身近な話に感じたのである。
この人は、超能力者だろうか。
思わず、本を受け取るのも忘れて、菜々は彼を見上げていた。
「……?」
怪訝な瞳の彼を置き去りに、菜々は「すごい……」と、素直な声をこぼしてしまう。
「すごい……です。これなら、読書感想文、書けそうです。ありがとうございました」
何がすごいのか、彼には分からないだろう。
たった今、この人は菜々と本との間にあったはずの、高い壁をなくしてしまったのだから。
「そう、それはよかった」
銀縁眼鏡の中の瞳が、なくなるほど細められる。
その笑顔が、余りに優しげなものに見えて。
菜々の心臓は、大きくひとつ鼓動を打った。
そして──伊藤菜々は、彼に恋に落ちたのだ。
※
『メロスは激怒した』
そんな分かりやすい一言から、その物語は始まる。
王に刃向かったメロスは処刑が決まるが、友人を自分の代わりの人質とし、ちょいとよその町の妹の結婚式まで出かけてしまう。そんな彼が、苦労して友人の元へと走って帰り着く、という話だった。
ストーリーは、非常にシンプルで分かりやすい。かつ、物凄く短い。
部活が終わって、夕食を済ませた後の、ヘロヘロの菜々でさえ、二日に分ければ何とか読み終えることが出来たのだから。
「めちゃくちゃな男だなあ、メロスって」
呆れるほどの豪胆と、いい加減さを持ち合わせた主人公に、菜々の笑いがこみ上げる。
しかし、彼がすべてをあきらめかけた時に飲んだ、ひとくちの水で、走る気力を取り戻した描写は、彼女を共感させた。
ああ、分かる分かる、と。
そんなことを、適当に綺麗ではない文字で書き連ねていったら、いつの間にか読書感想文の宿題は終わっていた。
多少、支離滅裂な部分もあるが、完成の期間といい、文章量といい、菜々にしては上出来だろう。
長い間、机の前に座っていたので肩がこっている。
んーと大きな伸びをした後、菜々は仕上がった原稿用紙を脇に押しやり、『太宰治全集3』の表紙を、じっと見つめた。
表紙を見つめていると、あの人の顔が浮かぶ。
図書室で声をかけてくれた、眼鏡の二年生だ。
色、白かったなあ。
思わず、菜々は自分の真っ黒な腕を見た。
ここまで色が違うと、人種そのものが違うのではないかと疑いたくなるが、一応菜々もお尻は真っ白なので、同じ人種なのだろう。
菜々が、踏み込めない聖域に住む超能力者──それが、彼に対する評価だった。
分かりにくいかもしれないが、最高評価と言っていい。
何しろ、菜々に本をあっさりと読ませ、なおかつ読書感想文まで楽に仕上げさせたのだから。
すごいとかすごくないとか、そういうレベルではない。
そんな彼に敬意を表して、菜々は目次をたどった。
メロス以外に、読めそうなものがないかと思ったのだ。
そんな彼女の目に、『美少女』というタイトルが踊る。
自分とは無縁だが、非常に気になる単語である。
ちょっとだけ読んでみるかなと、ページをたどって読み始めた菜々だったが、読み終わる頃には、頬を赤らめていた。
ちょっとエッチなお話だったのだ。
『あの人』は、こういう話を読んだら、どんな気持ちになるんだろうか。
ふと、菜々はそう考えてしまって、「うきゃーっ」と、恥ずかしさにベッドにダイビングする羽目になったのだった。
高校の夏休みの宿題に、読書感想文なるものの提出が義務付けられ、彼女は学校の図書室に、しぶしぶ足を運んだ。
昨日から、夏休みに入ったばかり。
このあと、部活に参加することになっている。
菜々は、陸上部の長距離ランナーだった。
すなわち、体育会系である。
色黒でショートカットで、しとやかさのかけらもない菜々は、自分ほど図書室と無縁な存在はないと思っていた。帰宅部のヤンキーと、タイマンを張れるレベルだろう。
その予感は的中した。
棚に並ぶ背表紙の文字全てが、彼女を拒絶しているように思えたのだ。
読もうと思うのに、さっぱり文字が頭に入ってこない。
友人と一緒に来ればよかったと、菜々は激しく後悔していた。
しかし、高校に入って出来た一番仲のいい友人ときたら、綺麗な顔してキツイ言葉をズバズバと口に出す女傑で、おそらく本を選び取ろうとする度に、その本に対する厳しい意見を吐いてくださるに違いなかった。
先日も、図書室から借りた本について、『全く文学を分かっていない、品性のない作品だったわ』と、憤慨していた。
その本のちんぷんかんぷんなタイトルと、ぱらっと開いて見せてもらった文章の固さは、菜々をドン引きさせたのだ。
私の近づいてはならない世界だ、と。
そんなわけで、友人に知られない内に、ささっと軽そうな本を選んで借りよう。出来るだけ、あらすじが簡単そうなものがいい。
そう思っていた菜々は、図書室の棚を前に、あーとか、うーとか唸る羽目になった。
そんな彼女の耳に。
「探し物?」
静かな声がかけられた。
冷房のない図書室は、窓が開け放たれていて、ぬるい風が吹き込んでいる。
その風の向こう側に、その人はいた。
夏服の白いシャツとは違う、白い肌。
背は高いけど痩せていて、ちゃんと食事を取っているのか、少し心配になる身体つき。
ちらりと見た、シャツの胸ポケットに縫われている校章の色から、ひとつ上の二年生であることが分かった。
細い銀縁の眼鏡から覗く黒い瞳は穏やかで、菜々の第一印象は「頭いいんだろうな」というものだった。
「あっ、あの……読書感想文に向いてそうな、あんまり難しくない本ってないですか?」
菜々は、大人しい人間ではない。
運動部は、コミュニケーションを大事にするところでもあり、挨拶や会話はしっかりと身に付けさせられている。
要するに、物怖じしない性格だったため、多少恥ずかしいとは思いながらも、この図書室の住人に助けを求めたのだ。
「ああ……読書感想文か。それなら……」
眼鏡の二年生は、すたすたと静かな足取りで本棚の林の奥へと歩いていく。
高い位置に伸ばされた長い指が、少しさまようように動いたかと思うと、一冊の本を抜き出す。
「これなんか、どうかな」
そう言って、菜々に差し出したのは、『太宰治全集3』という本だった。
タイトルからして、腰が引けかけた菜々に、「この中の、これなんか短くて読みやすいと思うよ」と、彼は本を開いて目次を見せてくれる。
彼が指し示していた先に書かれていた文字は──『走れメロス』だった。
こ、このタイトルは!
本とは無縁の菜々であっても、聞いたことのあるものだった。
そして、奇跡と言うべきか、うっすらと内容も覚えていたのである。
中学の時の国語の教科書に載っていたそれは、ほんの一瞬だけ、菜々の心を捉えたことがあったのだ。
中学時代もマラソンをしていた彼女には、身近な話に感じたのである。
この人は、超能力者だろうか。
思わず、本を受け取るのも忘れて、菜々は彼を見上げていた。
「……?」
怪訝な瞳の彼を置き去りに、菜々は「すごい……」と、素直な声をこぼしてしまう。
「すごい……です。これなら、読書感想文、書けそうです。ありがとうございました」
何がすごいのか、彼には分からないだろう。
たった今、この人は菜々と本との間にあったはずの、高い壁をなくしてしまったのだから。
「そう、それはよかった」
銀縁眼鏡の中の瞳が、なくなるほど細められる。
その笑顔が、余りに優しげなものに見えて。
菜々の心臓は、大きくひとつ鼓動を打った。
そして──伊藤菜々は、彼に恋に落ちたのだ。
※
『メロスは激怒した』
そんな分かりやすい一言から、その物語は始まる。
王に刃向かったメロスは処刑が決まるが、友人を自分の代わりの人質とし、ちょいとよその町の妹の結婚式まで出かけてしまう。そんな彼が、苦労して友人の元へと走って帰り着く、という話だった。
ストーリーは、非常にシンプルで分かりやすい。かつ、物凄く短い。
部活が終わって、夕食を済ませた後の、ヘロヘロの菜々でさえ、二日に分ければ何とか読み終えることが出来たのだから。
「めちゃくちゃな男だなあ、メロスって」
呆れるほどの豪胆と、いい加減さを持ち合わせた主人公に、菜々の笑いがこみ上げる。
しかし、彼がすべてをあきらめかけた時に飲んだ、ひとくちの水で、走る気力を取り戻した描写は、彼女を共感させた。
ああ、分かる分かる、と。
そんなことを、適当に綺麗ではない文字で書き連ねていったら、いつの間にか読書感想文の宿題は終わっていた。
多少、支離滅裂な部分もあるが、完成の期間といい、文章量といい、菜々にしては上出来だろう。
長い間、机の前に座っていたので肩がこっている。
んーと大きな伸びをした後、菜々は仕上がった原稿用紙を脇に押しやり、『太宰治全集3』の表紙を、じっと見つめた。
表紙を見つめていると、あの人の顔が浮かぶ。
図書室で声をかけてくれた、眼鏡の二年生だ。
色、白かったなあ。
思わず、菜々は自分の真っ黒な腕を見た。
ここまで色が違うと、人種そのものが違うのではないかと疑いたくなるが、一応菜々もお尻は真っ白なので、同じ人種なのだろう。
菜々が、踏み込めない聖域に住む超能力者──それが、彼に対する評価だった。
分かりにくいかもしれないが、最高評価と言っていい。
何しろ、菜々に本をあっさりと読ませ、なおかつ読書感想文まで楽に仕上げさせたのだから。
すごいとかすごくないとか、そういうレベルではない。
そんな彼に敬意を表して、菜々は目次をたどった。
メロス以外に、読めそうなものがないかと思ったのだ。
そんな彼女の目に、『美少女』というタイトルが踊る。
自分とは無縁だが、非常に気になる単語である。
ちょっとだけ読んでみるかなと、ページをたどって読み始めた菜々だったが、読み終わる頃には、頬を赤らめていた。
ちょっとエッチなお話だったのだ。
『あの人』は、こういう話を読んだら、どんな気持ちになるんだろうか。
ふと、菜々はそう考えてしまって、「うきゃーっ」と、恥ずかしさにベッドにダイビングする羽目になったのだった。
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