オセロ風景〜坂道と図書室
「東先輩、私、『たずねびと』が、いままでで一番好きな作品になりました」
8巻を、菜々は差し出した。
今日は月曜日の昼休み。
同じ作品を、何度も何度も読み返したのは、これが初めてのことだった。
「……そう、それは良かった」
少し。
彼は、ためらう素振りを見せた後、8巻を受け取る。
何かおかしなことを、菜々が言っただろうか。
少し気になる、わずかの間。
東先輩は、視線を手元の8巻に落とした。
返却処理は始まらず、ただ表紙を見つめて、こう呟いた。
「『お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です。』」
それは、まごうことなき『たずねびと』の重要な一節。菜々をだらだらに泣かせた張本人である。
彼も、その言葉には深い感銘を受けたのだろう。
先輩の低く優しい声で綴られたその言葉は、残暑の厳しい9月の空気の中、少し低い温度で流れていく気がした。
ついで生まれた沈黙を、菜々は自分から壊せないまま、彼を見つめていた。
「……次は9巻だね」
長く静かな時間の後、先輩は動き出した。
※
「伊藤菜々って、お前?」
それは、放課後にやってきた。
太宰治全集の9巻は、既にスポーツバッグの中。
部活が終わって、家に帰った後の楽しみとして、きちんとしまってある。
雅と少し話をしてから、今日も陸上部に向かおうとしていた菜々を、訪ねてきた男子がいた。
夏服のシャツの胸ポケットに刺繍されている校章は、一年の色。
他のクラスの生徒だが、菜々と無縁だったらしく、顔も名前も分からなかった。
「はい? そうですけど?」
廊下側の一番後ろが、雅の席。
彼女は座り、菜々も前の席を借りて、後ろを向いてしゃべっていた。
その廊下側のすぐ側の扉に、彼はいた。
雅が、うさんくさそうな視線で、彼を振り返る。
真っ黒に日焼けして、短い髪とシャツの下の筋肉を見る限り、運動部であることはすぐに分かった。
性格のキツさを表すように目じりはつり気味で、男らしい気配が、痛いほど伝わってくる。
「ふぅん」
ジロジロと、彼は菜々を上から下まで眺め回した。
その表情は、あまりかんばしいものではなく、次第に歪んでいくように見える。
「なんだ……スカートはいてなきゃ、男か女か分かんねぇじゃねぇか」
せせら笑いと共に、その大き目の口から出てきたのは、菜々を小馬鹿にする言葉。
「えっ」
突然、見ず知らずの男に罵倒されるいわれが、彼女にあろうはずもない。
あまりの事件に、菜々の意識は一瞬完全に死に絶えた。
だが。
次の刹那。
「天誅っ!!!!」
時間と世界は、下から上に縦に裂けた。
雅の強烈な掌底が、男の顎を下から思い切り突き上げたのだ。
「うぐっ!」
その突然の攻撃を、彼はよけられずにモロに食らい、ひどいうめきと共に後方によろめいた。
「いまのは、私の友人を馬鹿にした私の分よ! 菜々の分は、菜々が自分でやるわよね? 自慢の足で蹴っ飛ばしてやるといいわ!」
問答無用の雅の迫力に、菜々は我に返ると同時に、タジタジになってしまった。
いくら言葉で侮辱されたとは言え、反撃に男を蹴り飛ばすなんて、菜々の行動様式の中に組み込まれていない。
「いてぇな、何しやがんだ!」
舌を噛んだのか、血に濡れた赤いそれを一度出した後、男は顎を元の位置に戻すように、開けたり左右に動かしたりしている。
「『言葉の暴力』なんて、可愛い建前なんか、私は言わないわ。あんたがしたのは、菜々への『侮辱』。足りないオツムと軽い口で、何の想像力もなしに吐き出された、低俗な『侮辱』よ。そんな汚物に、言葉で優しく対応してもらえると思わないことね」
雅は、今や自分の席の椅子の上に立っていた。
そうすれば、女の身であっても、十分に目の前の彼を見下ろす──いや、見下(みくだ)すことが出来る。
雅は、まさに彼を見下しているのだ。
「1年5組の『トウド』でしょ、あんた。菜々、分かる? こいつは『トウド』。本名、東努(あずま つとむ)」
見知らぬパズルのピースが、彼女によって投げられる。どこにはめるかは、雅が知っていた。
名前から察するに、彼は東先輩の弟なのだろう。
「それでなあに、あんた。お兄ちゃんにつく虫でも払いに来たわけ? それを、お兄ちゃんに頼まれたわけ? そんなわけないわよね」
椅子の上から、雅が相手をぐうの音も出ないほど、言葉で追い詰める。
もはや、精神的優位は、完全に彼女のものである。
菜々は、当事者にも関わらず、ぽかんと彼らのやりとりを見ているしか出来ないのだ。
「ねえ、トウド。あんた、お兄ちゃん大好きでしょ? 大好きで大好きでたまらないでしょ? 自分の認めない女なんて、虫としても認めない気だったでしょ?」
悪魔のように、雅が笑う。
顎を押さえた男は、言葉と笑みに、こわばったまま。
廊下を通る生徒たちが、突然の修羅場に何事かと足を止めるが、雅はこれっぽっちも気にはしない。
「でもね、私も菜々もブラコン坊やの相手をしているほど、暇じゃあないの。あんたの侮辱で悲しめるほど、お暇じゃないのよ」
ひらり。
雅は、椅子から舞い降りた。
短いスカートが、そんな彼女の動きに心配な閃きを見せたが、座っていた菜々から目撃できなかったので、おそらく大丈夫だろう。
「行こう、菜々」
もはや雅の興味は、彼にはない。
机にある鞄を取り上げると、彼女はすたすたと前の出口に向かって歩き始める。
「あ、うん」
菜々は一度、東努を見たが、彼は寄ってきた男子生徒に囲まれてしまった。
東先輩の弟。
「菜々も蹴ってやればよかったのに」
「いや、いいよ。何かもう言われた言葉なんか、すごい衝撃映像で霞んじゃったし。ありがとう、雅」
「何それ、気持ち悪い。私は私の分しかやってないわよ」
彼が来た理由は、本当に雅の言った通りなのか。
それとも──
※
『女神』
「めちゃくちゃな話だよ」
東先輩が勧めてくれた9巻のタイトルが、それだった。
太宰の元に、昔の知人が突然訪ねてくるが、どうにも様子が変である。
『「握手!」 私はその命令にも従った。「接吻(せっぷん)!」「かんべんしてくれ。」』
菜々は、ぶはーっと吹き出した。
いい年をした男二人の会話が、これなのだから笑ってしまったとしても許されるだろう。
男は、藪から棒に自分と太宰が兄弟であると言い出し、自分の妻が実は母であり『女神』であると断言する。
太宰は彼が狂っていると思い、何とかなだめて彼の妻のところに送り届けるが、妻はそんな夫に何の違和感も見せず、上手にあしらっていた。妻の目には、夫は狂人に映っていないようなのだ。
それがどうにも合点がいかない太宰は、家に帰って妻に語る。しかし、妻は『狂ったって、狂わなくたって、同じ様なものですからね。あなたもそうだし、あなたのお仲間も、たいていそうらしいじゃありませんか』という始末。
菜々は、それぞれの妻の度量の大きさに、驚きながら笑った。
傍からは狂人に見える男も、妻からしたらおどけたことを言って、というレベルなのだから。
そして──菜々は東先輩の弟のことを思い出す。
名乗りもせずに、突然彼女の前に現れた東努。
傍から見れば、唐突でよく分からない彼の言葉や態度も、別の見方をすれば違うものになるのだろうか、と。
8巻を、菜々は差し出した。
今日は月曜日の昼休み。
同じ作品を、何度も何度も読み返したのは、これが初めてのことだった。
「……そう、それは良かった」
少し。
彼は、ためらう素振りを見せた後、8巻を受け取る。
何かおかしなことを、菜々が言っただろうか。
少し気になる、わずかの間。
東先輩は、視線を手元の8巻に落とした。
返却処理は始まらず、ただ表紙を見つめて、こう呟いた。
「『お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です。』」
それは、まごうことなき『たずねびと』の重要な一節。菜々をだらだらに泣かせた張本人である。
彼も、その言葉には深い感銘を受けたのだろう。
先輩の低く優しい声で綴られたその言葉は、残暑の厳しい9月の空気の中、少し低い温度で流れていく気がした。
ついで生まれた沈黙を、菜々は自分から壊せないまま、彼を見つめていた。
「……次は9巻だね」
長く静かな時間の後、先輩は動き出した。
※
「伊藤菜々って、お前?」
それは、放課後にやってきた。
太宰治全集の9巻は、既にスポーツバッグの中。
部活が終わって、家に帰った後の楽しみとして、きちんとしまってある。
雅と少し話をしてから、今日も陸上部に向かおうとしていた菜々を、訪ねてきた男子がいた。
夏服のシャツの胸ポケットに刺繍されている校章は、一年の色。
他のクラスの生徒だが、菜々と無縁だったらしく、顔も名前も分からなかった。
「はい? そうですけど?」
廊下側の一番後ろが、雅の席。
彼女は座り、菜々も前の席を借りて、後ろを向いてしゃべっていた。
その廊下側のすぐ側の扉に、彼はいた。
雅が、うさんくさそうな視線で、彼を振り返る。
真っ黒に日焼けして、短い髪とシャツの下の筋肉を見る限り、運動部であることはすぐに分かった。
性格のキツさを表すように目じりはつり気味で、男らしい気配が、痛いほど伝わってくる。
「ふぅん」
ジロジロと、彼は菜々を上から下まで眺め回した。
その表情は、あまりかんばしいものではなく、次第に歪んでいくように見える。
「なんだ……スカートはいてなきゃ、男か女か分かんねぇじゃねぇか」
せせら笑いと共に、その大き目の口から出てきたのは、菜々を小馬鹿にする言葉。
「えっ」
突然、見ず知らずの男に罵倒されるいわれが、彼女にあろうはずもない。
あまりの事件に、菜々の意識は一瞬完全に死に絶えた。
だが。
次の刹那。
「天誅っ!!!!」
時間と世界は、下から上に縦に裂けた。
雅の強烈な掌底が、男の顎を下から思い切り突き上げたのだ。
「うぐっ!」
その突然の攻撃を、彼はよけられずにモロに食らい、ひどいうめきと共に後方によろめいた。
「いまのは、私の友人を馬鹿にした私の分よ! 菜々の分は、菜々が自分でやるわよね? 自慢の足で蹴っ飛ばしてやるといいわ!」
問答無用の雅の迫力に、菜々は我に返ると同時に、タジタジになってしまった。
いくら言葉で侮辱されたとは言え、反撃に男を蹴り飛ばすなんて、菜々の行動様式の中に組み込まれていない。
「いてぇな、何しやがんだ!」
舌を噛んだのか、血に濡れた赤いそれを一度出した後、男は顎を元の位置に戻すように、開けたり左右に動かしたりしている。
「『言葉の暴力』なんて、可愛い建前なんか、私は言わないわ。あんたがしたのは、菜々への『侮辱』。足りないオツムと軽い口で、何の想像力もなしに吐き出された、低俗な『侮辱』よ。そんな汚物に、言葉で優しく対応してもらえると思わないことね」
雅は、今や自分の席の椅子の上に立っていた。
そうすれば、女の身であっても、十分に目の前の彼を見下ろす──いや、見下(みくだ)すことが出来る。
雅は、まさに彼を見下しているのだ。
「1年5組の『トウド』でしょ、あんた。菜々、分かる? こいつは『トウド』。本名、東努(あずま つとむ)」
見知らぬパズルのピースが、彼女によって投げられる。どこにはめるかは、雅が知っていた。
名前から察するに、彼は東先輩の弟なのだろう。
「それでなあに、あんた。お兄ちゃんにつく虫でも払いに来たわけ? それを、お兄ちゃんに頼まれたわけ? そんなわけないわよね」
椅子の上から、雅が相手をぐうの音も出ないほど、言葉で追い詰める。
もはや、精神的優位は、完全に彼女のものである。
菜々は、当事者にも関わらず、ぽかんと彼らのやりとりを見ているしか出来ないのだ。
「ねえ、トウド。あんた、お兄ちゃん大好きでしょ? 大好きで大好きでたまらないでしょ? 自分の認めない女なんて、虫としても認めない気だったでしょ?」
悪魔のように、雅が笑う。
顎を押さえた男は、言葉と笑みに、こわばったまま。
廊下を通る生徒たちが、突然の修羅場に何事かと足を止めるが、雅はこれっぽっちも気にはしない。
「でもね、私も菜々もブラコン坊やの相手をしているほど、暇じゃあないの。あんたの侮辱で悲しめるほど、お暇じゃないのよ」
ひらり。
雅は、椅子から舞い降りた。
短いスカートが、そんな彼女の動きに心配な閃きを見せたが、座っていた菜々から目撃できなかったので、おそらく大丈夫だろう。
「行こう、菜々」
もはや雅の興味は、彼にはない。
机にある鞄を取り上げると、彼女はすたすたと前の出口に向かって歩き始める。
「あ、うん」
菜々は一度、東努を見たが、彼は寄ってきた男子生徒に囲まれてしまった。
東先輩の弟。
「菜々も蹴ってやればよかったのに」
「いや、いいよ。何かもう言われた言葉なんか、すごい衝撃映像で霞んじゃったし。ありがとう、雅」
「何それ、気持ち悪い。私は私の分しかやってないわよ」
彼が来た理由は、本当に雅の言った通りなのか。
それとも──
※
『女神』
「めちゃくちゃな話だよ」
東先輩が勧めてくれた9巻のタイトルが、それだった。
太宰の元に、昔の知人が突然訪ねてくるが、どうにも様子が変である。
『「握手!」 私はその命令にも従った。「接吻(せっぷん)!」「かんべんしてくれ。」』
菜々は、ぶはーっと吹き出した。
いい年をした男二人の会話が、これなのだから笑ってしまったとしても許されるだろう。
男は、藪から棒に自分と太宰が兄弟であると言い出し、自分の妻が実は母であり『女神』であると断言する。
太宰は彼が狂っていると思い、何とかなだめて彼の妻のところに送り届けるが、妻はそんな夫に何の違和感も見せず、上手にあしらっていた。妻の目には、夫は狂人に映っていないようなのだ。
それがどうにも合点がいかない太宰は、家に帰って妻に語る。しかし、妻は『狂ったって、狂わなくたって、同じ様なものですからね。あなたもそうだし、あなたのお仲間も、たいていそうらしいじゃありませんか』という始末。
菜々は、それぞれの妻の度量の大きさに、驚きながら笑った。
傍からは狂人に見える男も、妻からしたらおどけたことを言って、というレベルなのだから。
そして──菜々は東先輩の弟のことを思い出す。
名乗りもせずに、突然彼女の前に現れた東努。
傍から見れば、唐突でよく分からない彼の言葉や態度も、別の見方をすれば違うものになるのだろうか、と。