オセロ風景〜坂道と図書室
 水曜日の夕方。

 菜々は、いつものように部活を終え、くたくたになった足を、それでも前に進めて帰り始めた。

 彼女の家までは、徒歩20分くらい。

 まったり徒歩通学するにもいい距離だし、時間が足りない時は、自慢の足で時間短縮することも出来る。

 とにかく、彼女は自分の足を動かすことを厭う性格ではなかったので、こうして毎日部活で疲れても、歩いて帰るのを嫌だとは思わなかった。

 夏至も過ぎて随分たつので、日が暮れるのが早くなってきた。

 しかし、部活を終えた少年少女たちが、周囲にぱらぱらといるので、夜道を余り怖いと思ったことはない。

 そんな菜々は、「明日はまた図書館。次は9巻だな」と、お楽しみに思いを馳せながら、正門を出て行こうとした。

「伊藤さん」

 菜々は、「ん?」と思った。

 いま、誰かにすぐ後方から、呼ばれた気がしたのだ。

 しかし、陸上部員が追っかけてくる時の呼び方には聞こえず、菜々はその声が自分に向けられたものであるか、一瞬分からなかった。

 えと。

 くるり。

 一応、振り返って見る。

 すると、ついさっき通り過ぎた門の側に、立っている人影があるではないか。

 微かに残る夕焼けと、外灯の中途半端な光が、その人をぼんやりと照らしている。

「東せんぱ……い?」

 ぼやけていてよく分からないが、そのシルエットには見覚えがあった。

「よかったら、途中まで一緒していいかな?」

 すたすたと長いコンパスで歩いてくる彼は、間違いなく図書室の東先輩だ。

 思わず自分の目をこすって、間違いじゃないか確認したくらいである。

「東先輩、今日は随分遅いですね」

 図書室は、確か5時には閉められるはず。既に、菜々の腕時計は6時を過ぎている。

 学校に、何か用があったのだろうか。

 頭の中に疑問符を数多く飛ばしながら、菜々は彼が横に並ぶまで待った。

「え……っと?」

 落ち着かない。

 東先輩と並んで歩く日が来るなんて、想像もしていなかった。嬉しいけど戸惑うという、落ち着かなさが全身を包む。

「ああ、ごめん。話したいことがあってね、待ってたんだよ」

「話、ですか?」

 思い当たる節がなく、菜々は一生懸命心当たりを探した。

 太宰治の本に関連する話だろうか。

 彼女には、それくらいしか掴める材料がなかった。

「一昨日は、努(つとむ)がひどい事を言ったみたいで、本当にごめんね」

 正門から続く、勾配のきつい坂道を下りる途中で、東先輩はそう切り出した。

 瞬間的に、菜々のテンションは急降下していくのが分かった。

 ああ、あれかあと。

 弟くんの不始末を、東先輩はどこかで聞きつけてしまったのだろう。

「ええと……謝らないで下さい。その……友達が暴れてくれたんで、本当に今はかけらも思い出さなかったくらいですから」

 大丈夫ですよと、菜々は自分の元気をアピールした。

 大体、本人が謝りにくるならいざ知らず、兄に謝ってもらうというのもおかしな話だ。

「ありがとう。そう言ってもらえると、少しは心が軽くなるよ。一昨日、家に帰って来てから弟の様子がおかしくてね。昨日、やっと白状させたんだよ」

 兄弟の関係が、東先輩の言葉の中に垣間見える。おそらく、仲が良いのだろう。

「……吉野さんにも、一言もらったしね」

 小さく付け足されたその言葉は、菜々の背筋をぞっとさせた。

 吉野──雅は、一体何を先輩に言ったというのか。

「み、雅ちゃん……何て?」

 カタカタ鳴りそうな歯を抑えつつ、彼女は先輩を青ざめながら見上げた。

「『首輪の必要な弟なら、ちゃんとつないでおいて下さい』……それだけだよ」

 素直に答えられ、菜々は心の中で、がっくりと両膝をついてうなだれていた。

 雅ちゃん、何てことを、と。

「たまたま、渡り廊下で会ったから言ったんだと思うよ。彼女は美術部だろう? 同じ教務棟だからね」

 彼女のあの剣幕も、東先輩は気にしている様子はない。

 それどころか、雅が美術部であることも知っているようだ。

 いいなあ、雅ちゃん。

 図書室以外で遭遇したことのない菜々からすれば、その接触そのものが少し羨ましいし、部活のことまで知られているのも、やっぱり羨ましかった。

「僕は、小さい頃から身体が弱くて……二つ下の努に、守ってもらうような、そんな子供だった。そのせいで、努は僕に対して変に過保護なところがあってね。おかしいだろ? 今ではこんなに大きな図体をしているのに」

 ふと出来た、言葉と言葉の溝に、東先輩は弟の話を流し込む。

 彼も弟を大事にしているのが、言葉の端々から伝わってくる。今回の事件も、努の『変な過保護』が発動したのだと言いたいのか。

「でも、どうして……その、弟さんが私のところに?」

 謎が、残っていないワケではない。

 弟が東先輩に対して過保護であることは理解出来ても、その過保護の槍の先が自分に向く理由が、菜々には理解出来なかったのだ。

「僕が……弟に聞いたからだよ。伊藤さんと同じ一年生だから、知っているかと思ってね」

 どきっと、胸が疼いた。

 兄弟の会話の中で、東先輩は菜々の名前を出したというのである。

 それが、一体どんな内容だったのか、気にならないワケがなかった。

「弟は知らないと言っていたから、話はすぐに終わったんだけど……まさか、伊藤さんの教室に直行してたとは……不快な思いをさせて、本当にごめん」

 すぐに終わったと聞いて、菜々は少し残念に思った。

 せいぜい、名前を出して知ってるか、くらいの話だったのだろう。最近、本を借りにくるようになった子がいる、って程度。

「いえ、本当に、もう謝らないで下さい。一度私のことを見たら、弟さんも逆に安心したんじゃないですか?」

 あははと、菜々は場を和らげようと笑った、

 何度も謝られても困るので、話をそのままフェイドアウトさせたかったのだ。

 けれど。

「どうして?」

 と、真面目に問い返されるとは、思ってもみなかった。

「え? あの、その……男か女か、わかんないくらいじゃ、何の虫にもならないだろうから?」

 一昨日の記憶が、頭の中でマーブル模様になる。

 努の言葉と、雅の言葉が彼女の中で奇妙にブレンドされ、ぽろりと菜々の中からこぼれ出る。

「……努」

 指先を眉間に当て、東先輩は険しい表情でそう呟いた。

 いま、ここにはいない弟に、名を呼びかけている。

 ハッ!

 彼女は、己の口をふさいだ。

 もしかして、弟くんは菜々に何を言ったかまで、東先輩にしゃべっていないのではないかと感じたのだ。

「あのっ……あのっ」

 空気が悪くなる気配に、彼女は何とか言葉を考えつこうとした。いまこの空気を変えることの出来る、魔法の言葉を。

 しかし、菜々は太宰治ではない。

 唇は、空しく空回りする。

「伊藤さん」

 真面目な声に、心臓が今度はビクリとする。

 余計なことを言ってしまったと、肩身がすっかり狭くなってしまった。

「伊藤さんは、ちゃんと『兎』だよ。見る目のない努の背中に、火をつけてやってかまわないからね」

 東先輩は、そんな彼女の頭の上に──兎耳をつけてくれた。

 兎。

 それは、『十六歳の美しい処女』

 ひとつおかしいです、ひとつ!

 心の中でがむしゃらにわめくけれど、東先輩が「こっちでしょ」と交差点で菜々の帰り道を指差すものだから、何を彼に訂正しようと思っていたか、すっかり忘れ去ってしまったのだった。

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