オセロ風景〜坂道と図書室
 学校通りを抜け、東先輩と菜々は大通りに出た。

 菜々の通学路と、寸分たがわない道のりを辿っていくので、彼女の中には疑問がぽかんと浮かんで来た。

「何で、私の帰り道分かるんですか?」

 先輩の方が足は長いが、足取りは緩やかだ。

 多少早足の傾向のある菜々が、ちょうどいいくらいの速度で、彼は隣を歩いてくれる。

「五中の子は、みんなこっちだろう?」

 出身校が、当たり前のように言い当てられ、ますます疑問が頭を過ぎる。

「そうですけど……東先輩も、五中なんですか?」

 聞きながら、違う気がしていた。それならば、彼の弟の努も同じ学校で、菜々と同級生になるため、さすがに顔くらいは覚えていただろう。

「僕は、もう一つ先の大井中だよ」

 やはりと思える答えが返るが、それは菜々の疑問の決定的な答えではない。それどころか。

「えっ、大井中って……先輩、もしかしてバス通学ですか?」

 同じクラスの大井中出身の子は、自転車通学かバス通学だった。

 先輩の色の白さを考えると、自転車通学はありえないと、頭の中で即座に包丁で切り分ける。

「あ……ああ、参ったな、伊藤さん。探偵になれるよ」

 彼は、困った眉になった。

「探偵になれなくていいです。距離結構あるじゃないですか、いまからでもバスで……」

 大通りなのだから、バス停はすぐ近くにある。

 先輩の用事が、弟の尻拭いであるというのなら、もう十分謝罪はもらった。

 この先、菜々の徒歩に付き合う必要は、もはやないのだ。

「うーん、じゃああとバス停二つ分だけ、一緒に歩いていいかな?」

 菜々の剣幕とは真逆に、東先輩は静かな声で彼女にお願いをする。

 お願い!?

 おかしな話だ。

 本来であれば、彼に恋焦がれている菜々こそが、彼と歩きたいとお願いしたいほどである。

「いえ、先輩がいいんだったら……いいです」

 だから、彼のお願いをうっかりでも断れるわけがない。

 雅の手前、『東先輩が欲しい』という茶番の台詞を吐いたが、いまだその度胸も勇気もないヘタレなのだ。せっかく向こうから転がってきた好機まで、無駄にするほど馬鹿ではない。

「伊藤さんと同じクラスの、山根さんって知ってる? ボブカットの。彼女が、図書部員でね、伊藤さんが五中だってことは、山根さんが教えてくれたんだよ」

 菜々の許可が出て落ち着いたのか、東先輩は会話をさかのぼって、菜々の疑問を解いてくれた。

「ああ、山根さん、図書部だったんですか」

 漫画大好きのクラスメートを思い出して、菜々は心の中で手を打った。

 雅という女傑が怖いのか、向こうから近づいてはこないが、挨拶は交わす相手だ。

 なるほど、クラスメートが同じ部にいれば、菜々の出身中学くらい、調べがつくだろう。

 東先輩の担当の時しか、図書室に行かないものだから、他にどんな部員がいるのかさえ、菜々は知らないままだった。

「五中のすぐ道反対側に、石野小があるだろう?」

「はい、私も石野小です。小学校から中学校に上がりたての時、通学路も変わらないから、間違って小学校に入りそうになったことがありました」

 自分の恥ずかしい失敗談まで話す必要はないというのに、最近往々にして菜々の口は、持ち主の言うことをきかない。

 ペラペラと余計なことを垂れ流すのだ。

 ほら、先輩が笑ってしまったではないか。いや、ちょっとグッジョブ私──彼女の心の中は、そんな風に唇以上に騒がしかったが。

「僕は、石野小には、いろいろお世話になっててね」

 バス停を一つ越えたところで、東先輩は軽く視線を右斜め前方へと向けた。

 彼らの歩く歩道の、道向かい側。

 そこには。

「あ」

 小学校の校舎の手前側に、それはある。

 この市で、一番大きな──総合病院。

 菜々も、中学時代に足を痛めた時にお世話になった。

「あの病院が、僕のかかりつけでね。入院する度に、窓から小学校のグラウンドを眺めてた」

 先輩と出会うずっと前、どのくらいの期間かは分からないが、菜々は彼と非常に近い距離にいたのだ。

 知るはずのないこととは言え、物凄く惜しいことをした気がする。

 知っていれば、お見舞いくらい行ったのに、と。勿論、それは無理な話なのだが。

「一番長くお世話になったのは、中学一年の時だよ。手術が必要になってね。手術前の入院も随分長くなって、僕は欝みたいになってた」

 今の先輩からは、想像のつかない昔話。

「大変でしたね」なんて、陳腐な言葉でしか相槌の打てない自分を、菜々は呪いたかった。

 そんな彼女に、先輩は幸せそうな笑みを浮かべた。

 過去のつらい話をしているなんて、とても思えないほど。

「寒い時期でね。窓の外には、小学生の子供たちが、校門の外に飛び出してまで走ってる。ああ、マラソン大会かな、騒がしいからやめてくれと思った。僕は病気で、すっかりひねくれてた」

 あれ。

 菜々は、疑問のような疑問でないような、そんな言葉を胸に浮かべた。

 いま、東先輩が何の話をしているのか、掴めそうで掴めなかったからだ。

 石野小学校の、マラソン大会。

 それは。

「そうしたら、一人の女の子が、だんごみたいな集団を、全部抜き去って飛び出したんだ。あれは、弟の努より速いに違いないって思ってびっくりした。そして、思った。あんなに飛ばすんじゃ、最後まで持たないだろうなって」

 あれ?

 菜々は、そこで完全に疑問形になった。

 話が、奇妙な方向に向かって──ある一つの結論に向かって、歩き出している気がしたのだ。

「でも、その子は全員置き去りにしたまま、学校に戻ってきて、一番でテープを切った。ああ、すごいと思った。風のように走る子だと思った」

 東先輩が、足を止めた。

 違う。

 その前に、菜々の足取りが遅くなり、ついには完全に止まったせいで、彼も足を止めざるを得なかったのだ。

「幸い、僕の手術は成功したけど、長い入院が必要だった。あの風のような子が、またいないかと窓の外を見た。グラウンドを駆けている姿を見れば、すぐに分かった。あの子は、本当に誰よりも速かった」

 足を止めたまま、東先輩はしゃべり続ける。

 菜々の方を振り返ったまま。

「そ、それは……」

 自分が何を言おうとしているのか分からないまま、菜々は言葉を絞り出そうとした。

 頭がおかしくなってしまいそうだった。

 しかし、言葉は奪い取られる。

「あの子は病床の僕の心を、とにかく速く走ることで慰めてくれた」

 だってそうだろう?

 と、先輩が続ける。

「たとえ、どれほど強い心臓を持っている人間だって、あの時の女の子には、誰一人敵わなかったんだから。負けるという点だけで言えば、彼女以外のみんな、病床の僕と大差なかったんだよ」

 嗚呼。

 菜々が、心の中で呟いた声さえ、遠い。

 東先輩が、彼女を見ている。

 菜々は、答えがもはや目の前にあるというのに、それに触れられないまま、彼を見つめ返していた。

「あの時の女の子に、僕はずっとお礼が言いたかった。『たずねびと』の太宰のように、ずっと」

 東先輩は、完全に菜々の方へと向き直った。

 外灯に浮かび上がる肌は、やはり白い。そして、半分は影で黒い。

 そんな白と黒の中。

 彼は言ったのだ。


「『お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です』」


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