オセロ風景〜坂道と図書室
 菜々が、東先輩と一緒に帰ったことは、別に秘密でも何でもない。

 周囲には、運動部に所属する生徒がいたし、彼女はよく見てはいなかったが、その中に同学年の子もいたはずだ。

 陸上部の子と、途中まで一緒に帰ることはあったが、好きだと思う人と一緒に帰るのは、思えば昨日が初めてではなかっただろうか。

 菜々は、心の中にいろんな困った種を抱えたまま、放課後を迎えてしまった。

『また明日、図書室で』

 彼にそう言われたのだから、今日、図書室に行かないのは不自然に思われるだろう。

 実際、返却する本は、ちゃんとバッグの中に入れて来ている。

 とうに読み終えてはいるそれを、いつも通り返しに行けばいいだけなのだ。

 なのに、昨日の出来事と──そして、雅の痛烈な言葉が、菜々の心に深い弾痕を残したままだった。

 菜々は、今の自分を、小学校の時の自分より好きではない。

 長年、ずっと引きずってきたその物語と、向かい合わなければならなかった。

 いままでのように、何の気負いもなく東先輩に会える気がしないのは、彼にその一番菜々が美しかった時代を知られていたから。

 いまの菜々を見つめながら、彼はあの頃の菜々を見ているのだ。

 自分の過去を、自分で越えられないのは苦しいことである。

「さっさと図書室へ行って、愛でも囁いてくるといいわ」

 自由な放課後になったというのに、席から立ち上がれないでいる菜々に、近づいてきた雅が容赦なく追い立てた。

 彼を手に入れろと言ったのは彼女で、そしてそれを受け取ったのは、確かに菜々だ。

 だが。

 彼女のライバルは、過去の自分なのである。

 とても、勝てる気がしなかった。

『あきらめる?』

 東先輩を好きだと気づかれた時、菜々は雅にこう言われた。

 動かしている足を止め、彼の元へ進むのをやめれば、それは簡単に達成される。

 刹那。

『負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える』

 先輩の声で、『黄金風景』の最後の言葉が甦る。

 負け惜しみだったのかもしれないが、太宰は自分がただの『負け犬』であると認めなかった。

 そうであるのは、いやなのだと。

 菜々は、まだ走り続けている。

 まだ──負け犬ではない、と思いたかった。


 ※


 ごくりと唾を飲み込む。

 図書室の扉を開けるのが、こんなにためらわれたのは、一番最初の時以来だろうか。

 あの頃、自分に一番似合わない場所として、菜々はここを恐れたのだ。

 出来るだけ音を立てないように、そぉっと扉を開ける。

 首を突っ込んでカウンターを見るが、そこには誰もいない。

 ほっとするやら寂しいやら、複雑な気持ちが胸を掴む。

 扉から手を離さないまま、菜々は視線を奥へと巡らせた。

 本の林に中にいるのだろうか、と。

 今日は、とても静かに扉を開けたものだから、返却作業中の東先輩が気づいていない可能性がある。

 顎を伸ばして、様子を伺おうとしていると。

「伊藤さん」──声は、背後からかけられた。

「……!」

 水をかぶった猫のごとく驚いて、彼女は振り返った。

 鞄を持った先輩が、廊下を歩いてきている。

 いつも、彼は先に図書室にいたので、今日もそうであると思い込んでいたが、単に遅れていただけのようだ。

 どんな理由であれ、背中からの不意打ちの呼びかけに、菜々がせっかく準備した心は、すっかりガタガタになってしまった。

「先生に捕まってね、ちょっと遅くなった。ごめん」

 しかし、東先輩は何も変わらない。

 いつものペースで彼女に語りかけ、図書室の扉に張り付いたままの菜々を促す。

 ここに立っていては、彼は入れないのだ。

 慌てて彼女は、図書室へと転がり込んだ。

「もう……10巻か」

 そのままカウンターへと行かず、先輩は菜々の前に立って、手を差し出す。

 彼女が握ったままの9巻を、受け取ってくれるのだろう。

「あ、ありがとうございます」

 反射的に本を手渡しながら、菜々は少しほっとした。

 自分の肩に力が入りすぎていただけで、いつも通りではないか、と。

 昨日の出来事など、最初からなかったかのようだ。

 本を持ってカウンターの中に入る先輩に、途中までゆっくりついていく。

 そうすると、いつものようにカウンター越しに向かい合う形になるのだ。

 鉛筆と図書カードを取り出す、白い指。

 節ばっていて、手も大きいので、女性のものには見えないが、それでもとても綺麗な手だと思った。

「昨日は……あの後、大丈夫だった?」

「え?」

 東先輩の指に見とれていて、菜々はかけられた言葉を、よく理解出来なかった。

「運動部の子は、いつもあんなに遅いのが普通なんだろうけど、やっぱりちゃんと送っていけばよかったと、少し後悔した」

 カードに返却日付を書き終えた鉛筆の先が、そこで止まる。

「あ、いえいえ! 大丈夫です! うちの辺りは、大通りからすぐなんで、そんな心配はないっていうか。ほんと大丈夫なんです……でも、ありがとうございます。そんな心配、されたことなかったから、ちょっと照れますね」

 冷静になれないまま、菜々はわめくようにそう言ってしまった。

 女性扱いされるのが、恥ずかしいけど嬉しくて、くすぐったさが半端ではない。

 まだ、図書室に誰も来てなくて、本当によかったと心から思った。

「自由は、いつも危険の側にある。逆に言えば、不自由であればあるほど安全が側にあるということ、だね」

 少し困ったように、東先輩はそう呟く。

「太宰の言葉……ですか?」

 聞いたことのないそれに、菜々は首を傾げる。

「いいや……単なる僕の心配の言葉」

 先輩は、図書カードを入れた9巻を持って立ち上がった。

 10巻が取り出される。

「今は、伊藤さんに勧める小説は、言わないでおくよ」

 貸出処理の終わった10巻を、菜々に差し出しながらそう言った東先輩は、珍しく意地悪だった。

『今は』

 その言葉の、本当の意味が分かったのは、菜々が部活を終えた後のことだった。

「伊藤さん」

 彼は──校門にいた。

 昨日と同じように、昨日よりも米粒一つ分、日が暮れるのが早くなった空の下、彼は菜々を待っていたのだ。

「バス停二つ分、伊藤さんに不自由をして欲しくてね」

 静かに笑う東先輩は。

 帰り道で、やっと自分の勧める小説のタイトルを教えてくれたのだった。


 ※


『その頃の私は、大作家になりたくて、大作家になるためには、たとえどのようなつらい修業でも、またどのような大きい犠牲でも、それを忍びおおせなくてはならぬと決心していた』

 それが、『断崖の錯覚』というタイトルの小説の書き出しだった。

 前書きは素晴らしくとも、内容は最悪と言っていいものだ。

 見栄を張った男が、そのせいで苦しむことになる話である。

 しかし、彼がやったことは恐ろしいが、彼が張った見栄に似たものは、大なり小なりどんな人の心にもあるのかもしれない。

『その頃の私は、トップランナーになりたくて、トップランナーになるためには、たとえどのようなつらい修行でも、どのような大きい犠牲でも、それを忍びおおせなくてはならぬと決心していた』

 菜々は──決心していなかった。

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