オセロ風景〜坂道と図書室
日曜日。
菜々は、前もって部に休みを届けていた。
今日は、休日の父に協力をしてもらって、やりたいことがあったのだ。
ランニングに短パン、ランニングシューズ姿で、彼女はストレッチを始めた。
朝早くの川辺は、夏の名残の熱を感じさせることもなく、静かで、そして冷ややかだった。
父は、近くの土手に車を止め、ミネラルウォーターのペットボトルを持ってこちらに歩いて来た。
「タイムは、計らなくていいんだな?」
「うん、今日は走りたいだけ」
父の言葉に、どこか遠い声で菜々は答えた。
頭の中では、コースのおさらいが始まっていて、そっちの方に多くの集中を裂いていたからだ。
念入りに念入りに身体を伸ばす。
菜々は──42.195kmを走るつもりだった。
高校の部活で、いつも自由にその距離を走れるわけではない。
トラックを延々と走り続けて、合計をその距離にする、ということは可能だが、ロードに出るには、学校という制約上では多くの難点があったのだ。
せいぜい、学校指定の車通りの少ないマラソンコースを、走ることが出来る程度だ。長くても、10km程度のそれ。
菜々の通う学校の陸上部は、強豪校というわけではない。マラソンで有名な高校でもない。
しかも、多くの種目に生徒が別れているため、長距離の選手は菜々とあと二人だけ。その二人も、どちらも1万メートル級を得意としているトラックランナーだった。
だから、菜々が思う存分フルマラソンの距離を走るには、こうして自分で準備するしかないのだ。
十分に水分補給をして、菜々は走り出した。
右足を前に出す、左足を前に出す。ただ、それを交互に繰り返す。
ハッハッと、温度を上げていく自分の呼吸音と、シャツやパンツのすれる音。
腕時計は外して来たが、走るときに回り出す、菜々の体内時計が時を刻むのが分かった。
それが1秒、100秒、1万秒と時を積み上げていく。
菜々は、そんな時間の構造物の中を、ただひた走った。
かよわい足で、険しい道のりを──走りきった。
※
月曜から木曜は、少し長い気がするのに、木曜から月曜がとても近い気がするのは、間に土日を挟むからだろうか。
菜々は、まだ『その』余韻に浸った、しびれの残る意識をそのままに、午前中の授業を乗り切った。
学生の本分が勉強であるというのならば、今日の彼女はその半分も全うしていなかっただろう。
「ご飯よ、菜々」
机に張り付いたままぼやーっとしている菜々の席の前に、お弁当袋を提げた雅が現れる。
「あ、うん、おなかすいた!」
腹時計が、雅の言葉に思い出したように、「ポッポー」と鳩を飛び出させた。
机からがばっと起き上がり、菜々はスポーツバッグからお弁当を引っ張り出す。
ガタガタと人の机を寄せて、向かいの席に雅が座った。
「今日の菜々は、『うっとり』しているのね。まるで、満足のいくセックスでもしてきたみたいな顔をしてるわ」
ガタガタガタッ!!!!
轟音は、二箇所で発生した。
菜々が椅子から転げ落ちそうになった音と、近所の男子生徒が椅子から転げ落ちそうになった音だ。
「どうかした?」
お弁当のフタを開けかけていた雅が、うろんな瞳で菜々のズッコケを見ている。本当に不憫なのは、彼女ではなく男子生徒の方だろう。
「な、何でもないっ」
必死に気を取り直して、菜々はしっかりと尻の下に椅子があるかを確認した。
「は、走って来ただけよ」
落ち着かない手でフォークを取り出し、菜々もお弁当のフタを開けた。気をつけて食事をしないと、雅に今度は米粒を吹かされるかもしれない、と思いながら。
「ああ、満足のいく走りが出来たってことね。なるほど、確かにそれは菜々にとっては絶頂に等しい快感でしょうね」
もはや、男子生徒はあらぬ方向をみながら、必死にその口にパンをねじ込んでいた。
「ああでも、気持ちが良かったのは確かだから。うーん。頭真っ白になってぼーっとなって、苦しいし、足元フワフワしてるのに、完全に止まってしまいたくなくかった」
走りきった時の、自分の記憶を甦らせ、菜々は本当に自分が『うっとり』していることを知る。
「『色気』より『走気(そうけ)』ね。いいわ、菜々、その顔素敵よ。菜々は、『図書室の君』に恋しているのかもしれないけど、走ることには快楽を求めてるのね」
そんな菜々の顔を、雅もまたうっとりと見たのだった。
※
余韻が長く続いたせいで、菜々は昼休みに図書室に直行出来なかった。
その代わり、放課後は一番に図書室へ向かう。
渡り廊下を抜け教務棟へたどりついたところで、足を止めた。
ちょうど、鞄を持った先輩が階段を上ってきているのが見えたのだ。
「こんにちは、東先輩」
声が、自然に晴れやかだったのは、やっぱりまだ余韻を消しきれていなかったからなのか。
「あ、ああ、こんにちは伊藤さん」
違うことを考えていたのだろうか。
一瞬、菜々をその眼鏡の奥の瞳に、捕まえ損ねた顔をした後、彼は目を細めながらそう挨拶をしてくれた。
「今日で11巻です」
抱えていた10巻を見せ、菜々はアピールした。
こんな風に、自分から新しい巻数を口にするのは、これが初めてのことだ。
いつも東先輩に「○巻だね」、と言われていたのだから。
「……それなんだけど、伊藤さん」
菜々の手元の10巻に視線を落としながら、彼は少し考え込む唇で、そう言った。
階段エリアから廊下に曲がれば、突き当りが図書室だ。
その、そんなに長くはない距離を歩いていた菜々は、次に先輩から衝撃の言葉をいただくこととなる。
「太宰の全集ね、小説の部分だけで言えば、10巻で終わりなんだよ」
「え?」
菜々は、意味が分からなかった。
「11巻からは、手紙とか資料とか、ちゃんとした作品というよりは、太宰治という人間の資料に近いものなんだ」
要するに──いま手に持っている巻で、菜々が読む本は終了、ということだった。
菜々は、前もって部に休みを届けていた。
今日は、休日の父に協力をしてもらって、やりたいことがあったのだ。
ランニングに短パン、ランニングシューズ姿で、彼女はストレッチを始めた。
朝早くの川辺は、夏の名残の熱を感じさせることもなく、静かで、そして冷ややかだった。
父は、近くの土手に車を止め、ミネラルウォーターのペットボトルを持ってこちらに歩いて来た。
「タイムは、計らなくていいんだな?」
「うん、今日は走りたいだけ」
父の言葉に、どこか遠い声で菜々は答えた。
頭の中では、コースのおさらいが始まっていて、そっちの方に多くの集中を裂いていたからだ。
念入りに念入りに身体を伸ばす。
菜々は──42.195kmを走るつもりだった。
高校の部活で、いつも自由にその距離を走れるわけではない。
トラックを延々と走り続けて、合計をその距離にする、ということは可能だが、ロードに出るには、学校という制約上では多くの難点があったのだ。
せいぜい、学校指定の車通りの少ないマラソンコースを、走ることが出来る程度だ。長くても、10km程度のそれ。
菜々の通う学校の陸上部は、強豪校というわけではない。マラソンで有名な高校でもない。
しかも、多くの種目に生徒が別れているため、長距離の選手は菜々とあと二人だけ。その二人も、どちらも1万メートル級を得意としているトラックランナーだった。
だから、菜々が思う存分フルマラソンの距離を走るには、こうして自分で準備するしかないのだ。
十分に水分補給をして、菜々は走り出した。
右足を前に出す、左足を前に出す。ただ、それを交互に繰り返す。
ハッハッと、温度を上げていく自分の呼吸音と、シャツやパンツのすれる音。
腕時計は外して来たが、走るときに回り出す、菜々の体内時計が時を刻むのが分かった。
それが1秒、100秒、1万秒と時を積み上げていく。
菜々は、そんな時間の構造物の中を、ただひた走った。
かよわい足で、険しい道のりを──走りきった。
※
月曜から木曜は、少し長い気がするのに、木曜から月曜がとても近い気がするのは、間に土日を挟むからだろうか。
菜々は、まだ『その』余韻に浸った、しびれの残る意識をそのままに、午前中の授業を乗り切った。
学生の本分が勉強であるというのならば、今日の彼女はその半分も全うしていなかっただろう。
「ご飯よ、菜々」
机に張り付いたままぼやーっとしている菜々の席の前に、お弁当袋を提げた雅が現れる。
「あ、うん、おなかすいた!」
腹時計が、雅の言葉に思い出したように、「ポッポー」と鳩を飛び出させた。
机からがばっと起き上がり、菜々はスポーツバッグからお弁当を引っ張り出す。
ガタガタと人の机を寄せて、向かいの席に雅が座った。
「今日の菜々は、『うっとり』しているのね。まるで、満足のいくセックスでもしてきたみたいな顔をしてるわ」
ガタガタガタッ!!!!
轟音は、二箇所で発生した。
菜々が椅子から転げ落ちそうになった音と、近所の男子生徒が椅子から転げ落ちそうになった音だ。
「どうかした?」
お弁当のフタを開けかけていた雅が、うろんな瞳で菜々のズッコケを見ている。本当に不憫なのは、彼女ではなく男子生徒の方だろう。
「な、何でもないっ」
必死に気を取り直して、菜々はしっかりと尻の下に椅子があるかを確認した。
「は、走って来ただけよ」
落ち着かない手でフォークを取り出し、菜々もお弁当のフタを開けた。気をつけて食事をしないと、雅に今度は米粒を吹かされるかもしれない、と思いながら。
「ああ、満足のいく走りが出来たってことね。なるほど、確かにそれは菜々にとっては絶頂に等しい快感でしょうね」
もはや、男子生徒はあらぬ方向をみながら、必死にその口にパンをねじ込んでいた。
「ああでも、気持ちが良かったのは確かだから。うーん。頭真っ白になってぼーっとなって、苦しいし、足元フワフワしてるのに、完全に止まってしまいたくなくかった」
走りきった時の、自分の記憶を甦らせ、菜々は本当に自分が『うっとり』していることを知る。
「『色気』より『走気(そうけ)』ね。いいわ、菜々、その顔素敵よ。菜々は、『図書室の君』に恋しているのかもしれないけど、走ることには快楽を求めてるのね」
そんな菜々の顔を、雅もまたうっとりと見たのだった。
※
余韻が長く続いたせいで、菜々は昼休みに図書室に直行出来なかった。
その代わり、放課後は一番に図書室へ向かう。
渡り廊下を抜け教務棟へたどりついたところで、足を止めた。
ちょうど、鞄を持った先輩が階段を上ってきているのが見えたのだ。
「こんにちは、東先輩」
声が、自然に晴れやかだったのは、やっぱりまだ余韻を消しきれていなかったからなのか。
「あ、ああ、こんにちは伊藤さん」
違うことを考えていたのだろうか。
一瞬、菜々をその眼鏡の奥の瞳に、捕まえ損ねた顔をした後、彼は目を細めながらそう挨拶をしてくれた。
「今日で11巻です」
抱えていた10巻を見せ、菜々はアピールした。
こんな風に、自分から新しい巻数を口にするのは、これが初めてのことだ。
いつも東先輩に「○巻だね」、と言われていたのだから。
「……それなんだけど、伊藤さん」
菜々の手元の10巻に視線を落としながら、彼は少し考え込む唇で、そう言った。
階段エリアから廊下に曲がれば、突き当りが図書室だ。
その、そんなに長くはない距離を歩いていた菜々は、次に先輩から衝撃の言葉をいただくこととなる。
「太宰の全集ね、小説の部分だけで言えば、10巻で終わりなんだよ」
「え?」
菜々は、意味が分からなかった。
「11巻からは、手紙とか資料とか、ちゃんとした作品というよりは、太宰治という人間の資料に近いものなんだ」
要するに──いま手に持っている巻で、菜々が読む本は終了、ということだった。