オセロ風景〜坂道と図書室
八月に入って少しして、菜々は本を返しに図書室へと向かった。
前と同じ曜日、前と同じ時間である。
もしかしたら、またあの人と会えるんじゃないか。
そんな淡い期待からだった。
そして──彼はいた。
カウンターの中に腰掛けていた彼は、本にしおりを挟み閉じるところだった。
扉の開いた音に気づいて、仕事のために読書をやめた瞬間だったのだ。
勿論、その扉を開けたのは、菜々である。
「あ、あの……こんにちは。これ、ありがとうございました」
彼の視線に落ち着かない気分を味わいながら、彼女は抱えていた本を差し出す。
「ああ、返却だね。ちょっと待ってね」
カウンターの脇にある図書カードを、身をひねるようにして彼は一枚抜き取った。
カードに日付を記入して、眼鏡の彼は本を受け取る。
「役に立った?」
座ったままの低い位置から、彼は菜々を見上げて問いかける。
まさか、おしゃべり出来るとは思わず、菜々はすっかり舞い上がりながら「はい」と答えていた。
「面白くて、他のも読んじゃいました。こんなこと、初めてです」
「太宰治の作品は、短いものが多いからね。それに、結構いい加減な話も多かっただろう?」
ふっと微笑みながら、彼は言う。
「はい、はい」と、菜々は力強く相槌を打っていた。
真面目そうな先輩の口から、『いい加減』なんて俗っぽい言葉が出たのが、何だか嬉しかったのだ。
一段、ハードルが低くなった気分である。
「太宰治全集は13巻まであるから、良かったら1冊ずつ読んでみたらどうかな?」
問いかけに、天まで昇る気分だった。
本来であれば、これで終わるはずの縁だった。
菜々は、読書感想文のためにしぶしぶ本を借りに来ただけで、それを返してしまえば、再び図書室は無縁のものになる。
そうなれば、学年も部活も違う彼との接点は、なくなってしまう。
「は、はい。読んでみたいです」
勿論、彼を目当てで、図書室に通うことも出来るだろう。
しかし、この時の菜々は、恋愛経験値が低すぎて、まだそんな考えは思いつきもしなかった。
「1巻からでいいかな?」
先輩は、返した本を手に持ったままカウンターから立ち上がり、菜々の前を林に向かって歩き始める。
「あ、あの、自分で取りますから」
とっさに、菜々は余計なことを言ってしまった。
せっかく、彼が取ってくれようとしているのだから、素直にお願いすれば、より近くにいられるのに、だ。
すぐにそれに気づきはしたが、今更言ってしまった言葉を引っ込めることも出来ず、菜々はただ呆然と立ち尽くしてしまった。
すると、彼は振り返り。
「この本は、一番上の棚にあるからね、取るのは大変だよ。一応、踏み台もあるんだけど、安定性重視のせいでちょっと重いから、運ぶのは大変だと思う」
それに、と先輩は付け足す。
「それに、どうせ……これも、元の場所に戻さないといけないからね」
なるほど。一石二鳥ですか。
彼の理路整然とした言葉に、菜々の脳内は晴れやかに納得した。
どうせ本を戻すついでに、新しいのを一冊抜き出す。
背の高い彼にとっては、造作もない仕事だろう。
心苦しさもなくなり、菜々はちょこちょこと彼の後ろをついて行った。
3巻が戻され、新たに1巻が抜き出される。
「貸出受付をするね」
本はそのまま渡されることなく、彼の手によってカウンターへと運ばれる。
何だか、とても女の子扱いされている気がした。
気恥ずかしいが、それは嬉しいことだ。
陸上部は、男女同じ部である。
女子陸上部とか、男子陸上部とかないので、男女入り乱れて一緒に遊ぶことが多い。
そのせいか、菜々は余り女子扱いされることはない。
女性らしい身体は、マラソンには不向きだ。その上、長距離でエネルギーが搾り取られるのが日常茶飯事なためか、いくら食べても余分な肉がつかない。
おかげで、胸の贅肉も当然残念なことになっている。
色黒で髪も短くペッタンコでは、下手したら中学生男子に間違えられるのではないかと、自分でも思うほどだ。
そんな彼女を、先輩は至極当然のように女性扱いしてくれる。
また、胸がどきどきと音をたてた。
カウンターに戻った彼が、図書カードを抜いて貸し出しの受付をしてくれている時。
菜々は、勇気を出して聞いてみることにした。
「こ、この本の中で、一番先輩が好きなのは何ですか?」
彼女に勧めるくらいだ。当然、彼も読んだことがあるのではないかと思ったのである。
「ああ、1巻は何が入っていたかな……」
書き込んでいた手を止めて、彼は本を開いて目次を探る。
「ああ、これが入ってたのか……この中では、『ロマネスク』が好きだよ」
指先が止まって、とんとんと二回その文字の上を叩いた。
彼の唇から洩れた『好き』の言葉に、菜々は顔が真っ赤になった気がする。
色黒だったので、きっと先輩には気づかれなかっただろう。
※
家に帰ってベッドに横たわると、菜々は借りてきた本を開いた。
一番最初に『ロマネスク』を探し出す。
太郎、次郎兵衛、三郎という男たちの物語だ。
その中でも、菜々の心を捉えたのは、次郎兵衛が口ずさんだ最後の詩だった。
岩に囁(ささや)く
頬をあからめつつ
おれは強いのだよ
岩は答えなかった
菜々の頭の中で、するりと言葉が入れ替わる。
岩に囁(ささや)く
頬をあからめつつ
私は彼が好きなのだよ
岩は答えなかった
菜々は──また赤くなった。
前と同じ曜日、前と同じ時間である。
もしかしたら、またあの人と会えるんじゃないか。
そんな淡い期待からだった。
そして──彼はいた。
カウンターの中に腰掛けていた彼は、本にしおりを挟み閉じるところだった。
扉の開いた音に気づいて、仕事のために読書をやめた瞬間だったのだ。
勿論、その扉を開けたのは、菜々である。
「あ、あの……こんにちは。これ、ありがとうございました」
彼の視線に落ち着かない気分を味わいながら、彼女は抱えていた本を差し出す。
「ああ、返却だね。ちょっと待ってね」
カウンターの脇にある図書カードを、身をひねるようにして彼は一枚抜き取った。
カードに日付を記入して、眼鏡の彼は本を受け取る。
「役に立った?」
座ったままの低い位置から、彼は菜々を見上げて問いかける。
まさか、おしゃべり出来るとは思わず、菜々はすっかり舞い上がりながら「はい」と答えていた。
「面白くて、他のも読んじゃいました。こんなこと、初めてです」
「太宰治の作品は、短いものが多いからね。それに、結構いい加減な話も多かっただろう?」
ふっと微笑みながら、彼は言う。
「はい、はい」と、菜々は力強く相槌を打っていた。
真面目そうな先輩の口から、『いい加減』なんて俗っぽい言葉が出たのが、何だか嬉しかったのだ。
一段、ハードルが低くなった気分である。
「太宰治全集は13巻まであるから、良かったら1冊ずつ読んでみたらどうかな?」
問いかけに、天まで昇る気分だった。
本来であれば、これで終わるはずの縁だった。
菜々は、読書感想文のためにしぶしぶ本を借りに来ただけで、それを返してしまえば、再び図書室は無縁のものになる。
そうなれば、学年も部活も違う彼との接点は、なくなってしまう。
「は、はい。読んでみたいです」
勿論、彼を目当てで、図書室に通うことも出来るだろう。
しかし、この時の菜々は、恋愛経験値が低すぎて、まだそんな考えは思いつきもしなかった。
「1巻からでいいかな?」
先輩は、返した本を手に持ったままカウンターから立ち上がり、菜々の前を林に向かって歩き始める。
「あ、あの、自分で取りますから」
とっさに、菜々は余計なことを言ってしまった。
せっかく、彼が取ってくれようとしているのだから、素直にお願いすれば、より近くにいられるのに、だ。
すぐにそれに気づきはしたが、今更言ってしまった言葉を引っ込めることも出来ず、菜々はただ呆然と立ち尽くしてしまった。
すると、彼は振り返り。
「この本は、一番上の棚にあるからね、取るのは大変だよ。一応、踏み台もあるんだけど、安定性重視のせいでちょっと重いから、運ぶのは大変だと思う」
それに、と先輩は付け足す。
「それに、どうせ……これも、元の場所に戻さないといけないからね」
なるほど。一石二鳥ですか。
彼の理路整然とした言葉に、菜々の脳内は晴れやかに納得した。
どうせ本を戻すついでに、新しいのを一冊抜き出す。
背の高い彼にとっては、造作もない仕事だろう。
心苦しさもなくなり、菜々はちょこちょこと彼の後ろをついて行った。
3巻が戻され、新たに1巻が抜き出される。
「貸出受付をするね」
本はそのまま渡されることなく、彼の手によってカウンターへと運ばれる。
何だか、とても女の子扱いされている気がした。
気恥ずかしいが、それは嬉しいことだ。
陸上部は、男女同じ部である。
女子陸上部とか、男子陸上部とかないので、男女入り乱れて一緒に遊ぶことが多い。
そのせいか、菜々は余り女子扱いされることはない。
女性らしい身体は、マラソンには不向きだ。その上、長距離でエネルギーが搾り取られるのが日常茶飯事なためか、いくら食べても余分な肉がつかない。
おかげで、胸の贅肉も当然残念なことになっている。
色黒で髪も短くペッタンコでは、下手したら中学生男子に間違えられるのではないかと、自分でも思うほどだ。
そんな彼女を、先輩は至極当然のように女性扱いしてくれる。
また、胸がどきどきと音をたてた。
カウンターに戻った彼が、図書カードを抜いて貸し出しの受付をしてくれている時。
菜々は、勇気を出して聞いてみることにした。
「こ、この本の中で、一番先輩が好きなのは何ですか?」
彼女に勧めるくらいだ。当然、彼も読んだことがあるのではないかと思ったのである。
「ああ、1巻は何が入っていたかな……」
書き込んでいた手を止めて、彼は本を開いて目次を探る。
「ああ、これが入ってたのか……この中では、『ロマネスク』が好きだよ」
指先が止まって、とんとんと二回その文字の上を叩いた。
彼の唇から洩れた『好き』の言葉に、菜々は顔が真っ赤になった気がする。
色黒だったので、きっと先輩には気づかれなかっただろう。
※
家に帰ってベッドに横たわると、菜々は借りてきた本を開いた。
一番最初に『ロマネスク』を探し出す。
太郎、次郎兵衛、三郎という男たちの物語だ。
その中でも、菜々の心を捉えたのは、次郎兵衛が口ずさんだ最後の詩だった。
岩に囁(ささや)く
頬をあからめつつ
おれは強いのだよ
岩は答えなかった
菜々の頭の中で、するりと言葉が入れ替わる。
岩に囁(ささや)く
頬をあからめつつ
私は彼が好きなのだよ
岩は答えなかった
菜々は──また赤くなった。