オセロ風景〜坂道と図書室
9月1日は、月曜日だった。
始業式であるその日は、午前中で学校は終わる。
放課後、菜々は図書室に太宰治全集の4巻を返しに行こうと、席を立ちかけた。
「え? 菜々、本なんて借りてたの?」
そんな彼女を、目ざとく見つけた友人が、珍獣でも見たような目で飛び掛ってくる。
クラスメートであり、一番の友人でもあり、美しさの割りに言葉のきつい吉野雅(みやび)だ。
黒髪ロングで、いかにも着物の似合いそうな日本美人である。
その優美な雰囲気に、「茶道とか華道とかやってない?」と、入学すぐの頃、菜々は彼女に問いかけてしまった。
そう大きくはない瞳で、不思議そうに一度菜々を見た後、雅は楽しそうにふふふと笑い出した。
「柔道と剣道でしたら、少々たしなんでいましてよ」
自分で言いながら、彼女はどんどん笑いをひどくしていくではないか。
からかわれた!
それに気づいて、菜々が恥ずかしい思いをしたのが、彼女と仲良くなるきっかけだった。
雅はしっかり者で頭も良いため、周囲を少し馬鹿にしているきらいがある。
自分と同じレベル以上の人間でなければ、付き合う価値もないと思っているようだ。
「菜々はいいのよ。くだらないことなんか気にせず、自分の道を邁進しているんだから。私、周囲の目を気にして、媚を売ったりするのが大嫌いなの」
そう言って憚らない雅は、美術部だ。
彼女に媚を売ることのない風景や静物を、ひたすらに絵の中に閉じ込めようとしている。
雅の描く絵を、菜々も見せてもらったが、どの季節の絵を見ても、秋や冬の物悲しさが、そこにはあった。
「夏の景色は苦手なの。だって、暑苦しいんだもの」
彼女にかかれば夏の海の景色も、寂れた熱に変わる。
そんな雅を、菜々はかわさなければならなかった。
「ほら、読書感想文で必要だったから」
表紙を見せれば、浮ついた本でないことは一目瞭然である。読書感想文という印籠まで使えば、疑われることはないだろう。
「あー、太宰ね。あのいやらしくもだらしない最低男か」
まるで知り合いのように、雅が彼をけなし始める。
「これ全部の感想文を書いたわけじゃないでしょ? 何の感想文を書いたの?」
作者だけの話で終わらず、雅はあっさりと菜々の感想文エリアへと踏み込んできた。
「え、あ、『走れメロス』」
疑われる要素は、そこにはあろうはずがない。
雅は、彼女が陸上部員であることを知っているし、おそらくメロスが短編であることも知っているはずだ。
そうであれば、菜々が感想文を仕上げるにふさわしい作品だと理解するだろう。
「『走れメロス』?」
しかし、雅は眉間にうっすらと皺を寄せた。
「ちょっと貸して」という言葉の途中で、既に菜々の手から太宰治全集の4巻は奪われている。
「あっ、ちょっ……!」
慌てて取り返そうとする彼女の手を上手によけ、雅はあっさりと目次を開いていた。
「メロスなんて……この本にはないわね。私もこの出版社の全集は読んだことがあるけど、4巻じゃなかった気がしたのよねえ……どういうこと?」
菜々は、雅の頭の良さを、完全に見誤っていた。
いやらしくもだらしない男の作品を、彼女は全巻読破済みだったのである。おまけに、出版社までしっかりと記憶していた。
「あ、いや……メロスは3巻だったんだけどさ、結構面白かったから、他のもちょっと読んでみたくなって」
しどろもどろになりながら、菜々は弁解に必死だった。
言っていることは、嘘ではない。
最初はまったく興味がなく、義務感で読み始めたが、読んで見ると意外に面白く読みやすく、胸に迫る部分もあった。
「私が読書なんて……やっぱおかしいかな」
全然納得していない雅の表情に、菜々はほとほと参ってしまった。
「おかしいのは、読書する菜々じゃなくて、それを隠そうとした菜々よ」
ズババッ。
容赦ない機関銃攻撃のごとき言葉の粒に、菜々はイタタと叩かれ続ける。
周囲の目を気にするのが嫌いな雅らしい、鋭い一言だった。
「うん、そうだね。ありがとう。面白かったから、また続きも借りてこようと思ってる」
ようやくやんだ機関銃攻撃に、菜々は苦笑いしながらも、言葉を変えた。
別に、後ろめたいことでも何でもない。
素直に読みたいものは読みたいと、彼女には言ってもいいのだ。
「そう……はい、本返すわ。菜々が図書室に行くなら、私もついでに何か借りに行こうかな」
本は素直に菜々に渡されかけるが、雅の言葉は穏やかなものではなかった。
彼女は、一緒に図書室に同行する気になっていたのだ。
えっ、ちょ、そんな。
菜々は、正直な生き物である。
本を受け取りかけた手が、自分でも驚くほどビクッと揺れたのが分かった。
刹那の、雅の目ときたら。
不審と不信で入り乱れ、一瞬もそらされることがない。
「え、でも、この本返して、次借りたら、すぐ出てくるから。図書室、結構、遠いし、いいよ」
菜々は、そんな雅を前にして、自分から視線をそらしてしまった。
「構わないわよ。ふぅん……図書室行きましょ?」
雅は、言及こそしなかったものの、太宰治全集を再び奪い返し、すたすたと図書室目掛けて歩き出したのだ。
菜々の浅はかな企みなど、狭く深くをモットーとする彼女に通じるはずなどなかったのである。
『よして下さい! ハムレット、いい加減に、およしなさい。これは一体、誰の猿智慧(さるぢえ)なんです? ばかばかしくて、見て居られません』
菜々の記憶に、4巻の『新ハムレット』のセリフが過ぎったのだった。
始業式であるその日は、午前中で学校は終わる。
放課後、菜々は図書室に太宰治全集の4巻を返しに行こうと、席を立ちかけた。
「え? 菜々、本なんて借りてたの?」
そんな彼女を、目ざとく見つけた友人が、珍獣でも見たような目で飛び掛ってくる。
クラスメートであり、一番の友人でもあり、美しさの割りに言葉のきつい吉野雅(みやび)だ。
黒髪ロングで、いかにも着物の似合いそうな日本美人である。
その優美な雰囲気に、「茶道とか華道とかやってない?」と、入学すぐの頃、菜々は彼女に問いかけてしまった。
そう大きくはない瞳で、不思議そうに一度菜々を見た後、雅は楽しそうにふふふと笑い出した。
「柔道と剣道でしたら、少々たしなんでいましてよ」
自分で言いながら、彼女はどんどん笑いをひどくしていくではないか。
からかわれた!
それに気づいて、菜々が恥ずかしい思いをしたのが、彼女と仲良くなるきっかけだった。
雅はしっかり者で頭も良いため、周囲を少し馬鹿にしているきらいがある。
自分と同じレベル以上の人間でなければ、付き合う価値もないと思っているようだ。
「菜々はいいのよ。くだらないことなんか気にせず、自分の道を邁進しているんだから。私、周囲の目を気にして、媚を売ったりするのが大嫌いなの」
そう言って憚らない雅は、美術部だ。
彼女に媚を売ることのない風景や静物を、ひたすらに絵の中に閉じ込めようとしている。
雅の描く絵を、菜々も見せてもらったが、どの季節の絵を見ても、秋や冬の物悲しさが、そこにはあった。
「夏の景色は苦手なの。だって、暑苦しいんだもの」
彼女にかかれば夏の海の景色も、寂れた熱に変わる。
そんな雅を、菜々はかわさなければならなかった。
「ほら、読書感想文で必要だったから」
表紙を見せれば、浮ついた本でないことは一目瞭然である。読書感想文という印籠まで使えば、疑われることはないだろう。
「あー、太宰ね。あのいやらしくもだらしない最低男か」
まるで知り合いのように、雅が彼をけなし始める。
「これ全部の感想文を書いたわけじゃないでしょ? 何の感想文を書いたの?」
作者だけの話で終わらず、雅はあっさりと菜々の感想文エリアへと踏み込んできた。
「え、あ、『走れメロス』」
疑われる要素は、そこにはあろうはずがない。
雅は、彼女が陸上部員であることを知っているし、おそらくメロスが短編であることも知っているはずだ。
そうであれば、菜々が感想文を仕上げるにふさわしい作品だと理解するだろう。
「『走れメロス』?」
しかし、雅は眉間にうっすらと皺を寄せた。
「ちょっと貸して」という言葉の途中で、既に菜々の手から太宰治全集の4巻は奪われている。
「あっ、ちょっ……!」
慌てて取り返そうとする彼女の手を上手によけ、雅はあっさりと目次を開いていた。
「メロスなんて……この本にはないわね。私もこの出版社の全集は読んだことがあるけど、4巻じゃなかった気がしたのよねえ……どういうこと?」
菜々は、雅の頭の良さを、完全に見誤っていた。
いやらしくもだらしない男の作品を、彼女は全巻読破済みだったのである。おまけに、出版社までしっかりと記憶していた。
「あ、いや……メロスは3巻だったんだけどさ、結構面白かったから、他のもちょっと読んでみたくなって」
しどろもどろになりながら、菜々は弁解に必死だった。
言っていることは、嘘ではない。
最初はまったく興味がなく、義務感で読み始めたが、読んで見ると意外に面白く読みやすく、胸に迫る部分もあった。
「私が読書なんて……やっぱおかしいかな」
全然納得していない雅の表情に、菜々はほとほと参ってしまった。
「おかしいのは、読書する菜々じゃなくて、それを隠そうとした菜々よ」
ズババッ。
容赦ない機関銃攻撃のごとき言葉の粒に、菜々はイタタと叩かれ続ける。
周囲の目を気にするのが嫌いな雅らしい、鋭い一言だった。
「うん、そうだね。ありがとう。面白かったから、また続きも借りてこようと思ってる」
ようやくやんだ機関銃攻撃に、菜々は苦笑いしながらも、言葉を変えた。
別に、後ろめたいことでも何でもない。
素直に読みたいものは読みたいと、彼女には言ってもいいのだ。
「そう……はい、本返すわ。菜々が図書室に行くなら、私もついでに何か借りに行こうかな」
本は素直に菜々に渡されかけるが、雅の言葉は穏やかなものではなかった。
彼女は、一緒に図書室に同行する気になっていたのだ。
えっ、ちょ、そんな。
菜々は、正直な生き物である。
本を受け取りかけた手が、自分でも驚くほどビクッと揺れたのが分かった。
刹那の、雅の目ときたら。
不審と不信で入り乱れ、一瞬もそらされることがない。
「え、でも、この本返して、次借りたら、すぐ出てくるから。図書室、結構、遠いし、いいよ」
菜々は、そんな雅を前にして、自分から視線をそらしてしまった。
「構わないわよ。ふぅん……図書室行きましょ?」
雅は、言及こそしなかったものの、太宰治全集を再び奪い返し、すたすたと図書室目掛けて歩き出したのだ。
菜々の浅はかな企みなど、狭く深くをモットーとする彼女に通じるはずなどなかったのである。
『よして下さい! ハムレット、いい加減に、およしなさい。これは一体、誰の猿智慧(さるぢえ)なんです? ばかばかしくて、見て居られません』
菜々の記憶に、4巻の『新ハムレット』のセリフが過ぎったのだった。