オセロ風景〜坂道と図書室
タララ、タ、タタタ──菜々は、こっそりタップを踏む真似をした。
階段の床は硬めで、ほんのちょっとタップに近い感触を彼女の足に伝えてくれるのだ。
今日は水曜日。
東先輩の当番は明日なので、既に読み終わった5巻を返しに行くのは、明日ということになる。
放課後の彼女は部活に専念すべく、部室へ向かう。
着替えてグラウンドに出ると、いつもちらっと図書室の方を見る癖が出来た。
グラウンド-各学年の校舎棟-教務棟と並んでいて、図書室は教務棟の三階の西の端である。
校舎棟に邪魔されて見えづらいが、一応端の窓の方は見えた。
夕日が反射していて、そこに誰がいようとも、判別出来るはずはないのだが。
それに、今日は東先輩の担当曜日ではない。
図書室に、いない可能性も高いだろう。
けれど、菜々はいつも見てしまう。
あの場所でしか、彼と会ったことがないからだ。
菜々は、シューズの紐を締め直す。
マラソンをメインとする長距離ランナーの菜々は、トラックを走るよりも、アスファルトの上を走る方が好きだった。
グラウンドを出て、菜々は校舎の西側へと駆け出した。
図書室の足元を走り、正門前へと回る。
帰宅部の人たちの笑い声の間を抜け、菜々は正門から続く坂道を駆け下りて行った。
この坂道は、最初の下りはブレーキをかけて走らなければならず、帰りの上りは、足に猛烈な地獄を味わわせてくれるという、マラソンランナー泣かせである。
特に帰りは、疲労もピークの状態で、上っていかなければならない。
勿論、歩いたっていいのだ。
マラソンには坂道はありはするけれども、この学校の坂のように、極端な上りはほとんどないのだから。
しかし、ここを歩くのは何だか負けた気がして、菜々は下る人たちに視線を向ける余裕も捨て、果敢に毎回チャレンジするのである。
疲れ果てた頭の中には、本来何も入ってこない。
きついとか暑いとか、わき腹が痛いとか、おなかすいたとか、そういう単純な言葉だけがよぎることが多かった。
けれど、今日の菜々は違った。
「わが……あしかよわく……ふっ……けわしき……山路っ」
その音が、自分の唇から切れ切れにあふれ出すのだ。
わがあしかよわく けわしき山路(やまじ)
のぼりがたくとも ふもとにありて
たのしきしらべに たえずうたわば
ききていさみたつ ひとこそあらめ
昨日読んだ、『正義と微笑』の賛美歌の一節だった。
※
「6巻だね」
木曜日は、昼休み。
いつも放課後だったので、今日は少し気分を変えて昼休みにしてみた。
菜々は、昼休みの方が時間を長く取れるからだ。
放課後は部活前とイコールで、心の中に時間切れを告げるアラームをセットされていた。
昼休みには何の用もなく、菜々はゆっくり出来ると思ったのである。
いつものように、カウンターを立った先輩が、5巻を持って本棚の林へ向かう。
先輩に勧めてもらった、『花火』の感想を、どう伝えようか、菜々は考えていた。
まさか、ここでタップを踏むわけにもいかない。
「昨日は……」
しかし、東先輩が切り出した言葉は、太宰の本のことではなかった。
「昨日は……伊藤さんは、坂道を駆け上っていたね」
その時の、彼女の衝撃たるや、言葉に出来ない。
菜々の『負けず嫌い発動の坂攻略』を、彼に見られていたというのだ。
どこで、なんて質問も馬鹿らしい。
ほとんどの生徒は、正門から家路につくのだ。
東先輩も、図書の当番のない日だったので、早めに帰宅していたのだろう。
「あはは、恥ずかしいですね。気づかなくてすみません、あの坂を見ると、どうもチャレンジ精神が……」
照れながら、菜々は自分の唇が思い通りにならない感覚を、おなかいっぱい味わった。
東先輩に気づかなかった自分に後悔もしていたし、見られていたことを恥ずかしくも思ったし、そんな話を、突然ここで振られるとも思っていなかったので、どうしたらいいのか、まるで分からなかったのだ。
「真っ赤な顔をして、わき目も振らず頂上目指して上っている姿を、うらやましく思ったよ」
そんな彼女に、更に東先輩は畳み掛ける。
穴があったら入りたいとは、このことだった。墓穴でもいいので穴を下さいと、菜々が願ってしまうほど。
こんな色黒でも、やっぱり真っ赤な顔はバレてしまうのか。
菜々は、いままで彼に見せていた赤い顔を思い出して、さらに穴を探すこととなる。
「そんな元気な伊藤さんには、少し重いかもしれないけど、『散華』を勧めてもいいかな」
5巻を戻し、6巻を抜き出しながら、東先輩は言った。
何故だか少し寂しそうに見えて、菜々はうまく言葉を探せなかった。
※
『私は、年少年長の区別なく、ことごとくの友人を尊敬したかった。尊敬の念を以て交際したかった』
『散花』では、太宰の友人である二人の男の異なる死について、書かれていた。
女の影がちらりともしない、硬派で友人を思う彼の心が、皮肉を交えながら綴られている。
二人目の男から、死の前に手紙が届く。その男は詩人で、太宰に向けて詩を送っていた。
彼の最後の詩の中の二行が、菜々をこわばらせる。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
思わず、寝転がっていたベッドから飛び起き、菜々は正座してしまった。
その二行の後に続くのが、更に二行。
たったそれだけの長さを、菜々は息を整えながら、時間かけて読んだ。
菜々は、泣きそうになって慌てて顔を本からそらした。
その活字の上に、涙を落すのをさけようとしたのだ。
「う、うえええ」
そして、安心して泣いた。
かわいそうとか、悲しいとかではなく、その作品は菜々の柔らかい心には──壮絶なものに映ったのだ。
階段の床は硬めで、ほんのちょっとタップに近い感触を彼女の足に伝えてくれるのだ。
今日は水曜日。
東先輩の当番は明日なので、既に読み終わった5巻を返しに行くのは、明日ということになる。
放課後の彼女は部活に専念すべく、部室へ向かう。
着替えてグラウンドに出ると、いつもちらっと図書室の方を見る癖が出来た。
グラウンド-各学年の校舎棟-教務棟と並んでいて、図書室は教務棟の三階の西の端である。
校舎棟に邪魔されて見えづらいが、一応端の窓の方は見えた。
夕日が反射していて、そこに誰がいようとも、判別出来るはずはないのだが。
それに、今日は東先輩の担当曜日ではない。
図書室に、いない可能性も高いだろう。
けれど、菜々はいつも見てしまう。
あの場所でしか、彼と会ったことがないからだ。
菜々は、シューズの紐を締め直す。
マラソンをメインとする長距離ランナーの菜々は、トラックを走るよりも、アスファルトの上を走る方が好きだった。
グラウンドを出て、菜々は校舎の西側へと駆け出した。
図書室の足元を走り、正門前へと回る。
帰宅部の人たちの笑い声の間を抜け、菜々は正門から続く坂道を駆け下りて行った。
この坂道は、最初の下りはブレーキをかけて走らなければならず、帰りの上りは、足に猛烈な地獄を味わわせてくれるという、マラソンランナー泣かせである。
特に帰りは、疲労もピークの状態で、上っていかなければならない。
勿論、歩いたっていいのだ。
マラソンには坂道はありはするけれども、この学校の坂のように、極端な上りはほとんどないのだから。
しかし、ここを歩くのは何だか負けた気がして、菜々は下る人たちに視線を向ける余裕も捨て、果敢に毎回チャレンジするのである。
疲れ果てた頭の中には、本来何も入ってこない。
きついとか暑いとか、わき腹が痛いとか、おなかすいたとか、そういう単純な言葉だけがよぎることが多かった。
けれど、今日の菜々は違った。
「わが……あしかよわく……ふっ……けわしき……山路っ」
その音が、自分の唇から切れ切れにあふれ出すのだ。
わがあしかよわく けわしき山路(やまじ)
のぼりがたくとも ふもとにありて
たのしきしらべに たえずうたわば
ききていさみたつ ひとこそあらめ
昨日読んだ、『正義と微笑』の賛美歌の一節だった。
※
「6巻だね」
木曜日は、昼休み。
いつも放課後だったので、今日は少し気分を変えて昼休みにしてみた。
菜々は、昼休みの方が時間を長く取れるからだ。
放課後は部活前とイコールで、心の中に時間切れを告げるアラームをセットされていた。
昼休みには何の用もなく、菜々はゆっくり出来ると思ったのである。
いつものように、カウンターを立った先輩が、5巻を持って本棚の林へ向かう。
先輩に勧めてもらった、『花火』の感想を、どう伝えようか、菜々は考えていた。
まさか、ここでタップを踏むわけにもいかない。
「昨日は……」
しかし、東先輩が切り出した言葉は、太宰の本のことではなかった。
「昨日は……伊藤さんは、坂道を駆け上っていたね」
その時の、彼女の衝撃たるや、言葉に出来ない。
菜々の『負けず嫌い発動の坂攻略』を、彼に見られていたというのだ。
どこで、なんて質問も馬鹿らしい。
ほとんどの生徒は、正門から家路につくのだ。
東先輩も、図書の当番のない日だったので、早めに帰宅していたのだろう。
「あはは、恥ずかしいですね。気づかなくてすみません、あの坂を見ると、どうもチャレンジ精神が……」
照れながら、菜々は自分の唇が思い通りにならない感覚を、おなかいっぱい味わった。
東先輩に気づかなかった自分に後悔もしていたし、見られていたことを恥ずかしくも思ったし、そんな話を、突然ここで振られるとも思っていなかったので、どうしたらいいのか、まるで分からなかったのだ。
「真っ赤な顔をして、わき目も振らず頂上目指して上っている姿を、うらやましく思ったよ」
そんな彼女に、更に東先輩は畳み掛ける。
穴があったら入りたいとは、このことだった。墓穴でもいいので穴を下さいと、菜々が願ってしまうほど。
こんな色黒でも、やっぱり真っ赤な顔はバレてしまうのか。
菜々は、いままで彼に見せていた赤い顔を思い出して、さらに穴を探すこととなる。
「そんな元気な伊藤さんには、少し重いかもしれないけど、『散華』を勧めてもいいかな」
5巻を戻し、6巻を抜き出しながら、東先輩は言った。
何故だか少し寂しそうに見えて、菜々はうまく言葉を探せなかった。
※
『私は、年少年長の区別なく、ことごとくの友人を尊敬したかった。尊敬の念を以て交際したかった』
『散花』では、太宰の友人である二人の男の異なる死について、書かれていた。
女の影がちらりともしない、硬派で友人を思う彼の心が、皮肉を交えながら綴られている。
二人目の男から、死の前に手紙が届く。その男は詩人で、太宰に向けて詩を送っていた。
彼の最後の詩の中の二行が、菜々をこわばらせる。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
思わず、寝転がっていたベッドから飛び起き、菜々は正座してしまった。
その二行の後に続くのが、更に二行。
たったそれだけの長さを、菜々は息を整えながら、時間かけて読んだ。
菜々は、泣きそうになって慌てて顔を本からそらした。
その活字の上に、涙を落すのをさけようとしたのだ。
「う、うえええ」
そして、安心して泣いた。
かわいそうとか、悲しいとかではなく、その作品は菜々の柔らかい心には──壮絶なものに映ったのだ。