オセロ風景〜坂道と図書室
 土日は、余り楽しい気持ちではなかった。

 それでも、うだうだ考えているよりはと、菜々は部活でひたすら長い距離を走ることにした。

 そうして、やっと──月曜日が来る。

 浮かれる気分になれないまま、菜々は放課後に「太宰治全集6」を抱えて図書室へと向かった。

 どんな顔をすればいいのか、いや、相手は知らないのだから、普通にしていた方がいい。

 自分にそんな風に言い聞かせながら、彼女はゆっくりと図書室の扉を開く。

「こんにちは、伊藤さん」

「……こんにちは、東先輩」

 一瞬反応が遅れたのは、心の鈍さのせいだろう。

 今日も東先輩は、抜けるほど色が白く、痩せた人だった。

 カウンターに本を差し出すと、彼はそれを受け取りながら、菜々を見上げた。

「どうかしたの?」

 図書カードを取るために身をひねるわけでもなく、真っ直ぐ彼女に問いかける。

 それに、菜々はハッとした。

 普通通りと決めたのに、さっそく守れていなかったことに気づいたのだ。東先輩が、こんなに簡単に不審に思ってしまうほど。

「あ、その……『散華』で泣いてしまって」

 とっさに、菜々は自分のこの気持ちを、太宰治の作品のせいにした。

 あの作品を最初に読んで泣いたのは確かだし、それが今回の彼女のテンションの低さと無関係ではなかったからだ。

「あ、ああ……やっぱりちょっと重かったか。それじゃあ、7巻は……」

 少し残念そうな声に、聞こえた。

 しかし、彼はすぐに気を取り直したように、手早く返却処理を始める。

「あの、いえ……確かに重かったんですけど、知らない人の人生に……触った気がしました」

 最初に読んだ時の強い感情を、彼女は思い出しながら、とつとつと言葉にした。

 もし、東先輩の話を聞かなければ、菜々はこれを言わなかったかもしれない。けれど、重いと分かっていてなお、彼は『散華』を勧めたのだ。

 彼にとって思い入れが深い作品を、菜々は「重い」という、たった2文字で片付けてしまいたくなかった。

 確かに、彼女には読み込めない部分が、数多くあるけれども、「どうでもいい」とは思っていないのだから。

「そうだね……それが本のいいところだと僕も思っているよ。自分が共感出来る人に入り込んでしまうのも楽しいけど、自分とまったく違う人を見つめるのも……やっぱり興味深いことだしね」

 新しい巻を取りにいくべく立ち上がった東先輩の視線が、彼女に降りてくる。

 きちんと菜々に向けて、彼は唇に小さな笑みを浮かべてくれるのだ。

 ああ。

 菜々は、またも恋の崖を転がり落ちる。

 この人が、好きだなあと再実感する瞬間だった。

『私は、年少年長の区別なく、ことごとくの友人を尊敬したかった。尊敬の念を以て交際したかった』

 太宰の言葉が甦る。

 菜々は、東優(あずま すぐる)という男を──尊敬してしまったのだ。

 あの人素敵、というふわふわしたカンジが、尊敬という足場でがっちりと固まっていく。

「7巻は……『御伽草子』かな。伊藤さんも知っている作品ばかりだと思うから楽しめると思うよ」

 菜々の心に気づきもせずに、東先輩は本の林の中から新しい巻を取り出す。そのまま、いつものように、ついて来ていた菜々の脇を抜け、カウンターへ戻ろうとする。

 あっと。

 彼女は、無意識に離れていく彼に手を伸ばしてしまった。

 くんっと、東先輩の白いシャツを掴んでいた自分の運動神経に、どう乾杯すればよかったのだろうか。どちらかというと、完敗したのだが。

「わ……どうしたの?」

 穏やかな彼の口から、珍しく飛び出る驚きの一言。

 わーわーと、菜々は自分のしてしまったことに気づき、ぱっとシャツから手を離した。

 あまりにこの空気が居心地がよすぎて、行かないで欲しかったなんて、口に出せるはずもなかった。

「えと、あの……もう1冊……そう! もう1冊借りて行こうかな、って」

 彼女は、転がりまくる言葉を必死で追いまわし、真っ赤になった顔で棚にある本を指す。

 東先輩に、取ってもらいたいから呼び止めたのだという言い訳は、いまの彼女の状態こそ喜劇だが、話の筋としては上出来だった。

 彼は、手元の7巻をちらりと見た後、棚に視線を上げて、おそらく8巻を見た。

「……」

 何故か、そこで東先輩は、一度黙り込んでしまった。

「伊藤さん……」

「はいっ」

 名前を呼ばれるくすぐったさから逃れるべく、菜々は背筋をぴしっと伸ばして反応する。両手なんか、腿の両側にしっかりつけた、見事な姿勢だった。

「読書が楽しくなってきて、たくさん一気に読みたい伊藤さんの気持ちは、すごくよく分かるんだけど……」

 彼が、苦笑を浮かべたのは、何に対してだろう。

 いまから言おうとしていることについてか、目の前のオモチャの兵隊のような菜々の態度にか。

「よかったら、1冊ずつゆっくり読んで欲しいと思ってる……駄目かな?」

 頭を少しだけ傾けての「駄目かな?」砲を、菜々は真正面から食らった。

 不意打ちである。

 奇襲である。

 これが合戦なら、菜々の陣営は全滅である。

「だっ、駄目じゃないです……1冊ずつ、ゆっくり読みます」

 蒸気機関車のごとき湯気が、頭から立ち上っているのではないかと心配になるほど、菜々は己が煮えたぎるのを知ったのだった。


 ※


『御伽草子』は、菜々の想像に反することのない、彼女も聞いたことのある物語のオムニバス作品だった。

『瘤とり』『浦島さん』など、多少タイトルは違うものの、読み始める前に内容が想像できるもので。

 しかし、そこはあの太宰である。

 7巻まで来ると、さすがの菜々も『太宰治』という男を、少し分かってきた。

 そして、驚いた。

『カチカチ山』の書き出しは、彼女に衝撃を与えたのだ。

『カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ儼然たる事実のやうに私には思はれる』

 その瞬間、菜々の心の中にあった『カチカチ山』の作品は、音を立てて崩れ落ちたのである。

 そんな解釈を、考えたこともなかったどころか、一瞬にしてあのストーリーが、違うものに作り上げられたのだ。

 そして、読み終えた後、菜々は思った。

 十六歳の美しい処女(兎)には近寄ってはならないと。

 幸い。

 その条件の三つの内、二つしか満たしていない菜々には、兎の資格はないようだったが。
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