オセロ風景〜坂道と図書室
「カチカチ山って、女の子と男の話だったんだね」
火曜日の昼休み。
お弁当を前にした菜々は、ちょっと得意な気分になりながら、それを雅に話した。
女の子と男に、装飾の文字がつくことは勿論知っていたが、それを口に出すのは、さすがに憚られた。
「ああ、『16歳の美しい処女』と、『醜男』か」
そんな菜々の気遣いは、女傑雅には到底届くことはない。
あっさりと、彼女のかけたオブラートを、べりべりと引きちぎったのだ。
近くの席でお弁当を食べていた男子生徒が、彼女の言葉にぎょっとしてこっちを見たのが分かった。
「童話とか御伽噺に出てくる動物って、人間で書くとあまりに生々しいから、動物の着ぐるみを着せられてるだけでしょ」
そんな視線もものともせず、雅は簡単に真理を踏みつける。
「おおー」
そこまで考えに至らなかった菜々は、感嘆の声をあげた。
本当に、雅は頭がいいんだなと思い知る。
こんな彼女のことを、太宰ならどう書くだろうか。
『とかく高慢ではあるが、雅といふ娘は美しい。美しい十六歳の処女である。それゆえ、彼女は残酷である』
ふと浮かんだ太宰節の勝手な創作に、菜々は笑い出したい気持ちをこらえなければならなかった。
「何? 気持ち悪い顔」
手厳しい雅の一言に、彼女はハエのごとく叩き落される。
「雅は、綺麗な顔だよね」
死に掛けのハエの気分を味わいながら、菜々は何とか羽を動かして飛び上がろうとした。
「何それ? 気持ち悪い」
今度こそ、見事にとどめを刺される。
「美しさなんて、時代によって変わってゆくものだもの。私は、平安時代の美人でありたかったわ」
何で現代に生まれちゃったんだろ。
不満そうに、雅は箸を鳴らす。
どの年代を巡っても、菜々が美人だと思われる時代はないだろう。
いや、サバイバル上等な狩猟生活をしていた石器時代とかなら、まだ何とか──考えていることの空しさに気づいて、菜々は誰ともなしに、あははと苦く笑ってしまった。
「まあでも、十六歳ってだけで、人生の中では一番美しい頃なんだろうから、美しさを使わないのは損よね」
雅の一言は、菜々に大きな衝撃を与えた。
「こ、これがピークなの!?」
思わず、じっとフォークを持つ手を見る。
こんな真っ黒な小猿が、人生のピークなんて考えたくなかったからだ。
「生物学的な本当のピークは、二十歳くらいね。でも、女なんて子供が産める身体になった時点でピークみたいなものでしょ。オスを呼べるようにならないといけないわけだから」
近くの男子生徒が、ブッとペットボトルの飲み物を吹き出したことに気づいてはいたが、菜々はそれどころではなかった。
二十歳。
それは、非常にシビアな年齢だった。
菜々で言えば、あとほんの四年しかないのだ。
雅が言うところの、生物学上一番綺麗な時期でコレというのは、菜々にとってなかなかにしてへこむ事実だった。
「オス……呼べる?」
つい彼女は、雅の言葉をそのままに使ってしまった。
もはや、男子生徒はこっちの方を見ないようにしている。
「大丈夫なんて、私は言わないけど……菜々。世の中には、需要と供給がちゃんとあるのよ」
漢字で書けない言葉を言われても、菜々に理解できるはずがなかった。
※
木曜日は、カチカチ山。
7巻を返しにきた菜々は、それを素直に東先輩に言っていいか、戸惑うところがあった。
彼も読み込んでいるだろうから、あれに出てくる女の子が、『16歳の美しい処女』であることは知っているだろう。
しかし、彼が雅のようにそれをストレートで言うことはないはずだ。
なので。
「知ってたはずのカチカチ山が……違う物語になりました」
兎や狸の表現を避けて、菜々は感想を伝えることにした。
「傑作だね、あれは」
彼も内容を思い出したのだろう。ふふと笑いながら、返却処理の終わった7巻を持ってカウンターを立つ。
菜々を、8巻の側に連れて行ってくれる儀式が始まるのだ。
「あの、女の子はみんな、あそこまで残酷じゃないと……思いますよ」
女性代表で言い訳をしたいわけではないが、菜々はつい弁解めいたことを口にしていた。
たとえ菜々が兎の立場であったとしても、あんなひどいことは出来ないだろう。
「そうかい? でも男の中には、『あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる』よ」
するりと引用された言葉は、いつもよりもっとおかしそうな笑いと共に放たれた。
一体、何を想像したのだろう。
彼も誰かに恋をした時、溺れかかってあがいたのだろうか。
今現在おぼれているなら、笑い事ではないだろうから、その記憶は過去のものなのか。
菜々の思考に、余計なシミが広がっていく。
「曰(いわ)く……」
7巻は戻される。
8巻は抜き出される。
「『曰く、惚れたが悪いか』、だね」
白い毛を持つ狸の唇に──切ない気持ちが浮かんでいるように見えた。
※
『たずねびと』
それが、8巻で東先輩の勧めてくれた作品だった。
東京から青森に疎開する太宰の、厳しい旅路が描かれていた。食べ物に困り、ぼろぼろの身なりになりながらも、彼らは多くの人の情けに助けられる。
太宰は、お礼も言えずに別れてしまった、その時の恩人を探したくて、本文中に何度も同じ言葉を綴っていた。
『「お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です」』
菜々は、『散華』の時とは、違う意味でだらだら泣いてしまって、ティッシュを何枚も無駄にすることとなった。
火曜日の昼休み。
お弁当を前にした菜々は、ちょっと得意な気分になりながら、それを雅に話した。
女の子と男に、装飾の文字がつくことは勿論知っていたが、それを口に出すのは、さすがに憚られた。
「ああ、『16歳の美しい処女』と、『醜男』か」
そんな菜々の気遣いは、女傑雅には到底届くことはない。
あっさりと、彼女のかけたオブラートを、べりべりと引きちぎったのだ。
近くの席でお弁当を食べていた男子生徒が、彼女の言葉にぎょっとしてこっちを見たのが分かった。
「童話とか御伽噺に出てくる動物って、人間で書くとあまりに生々しいから、動物の着ぐるみを着せられてるだけでしょ」
そんな視線もものともせず、雅は簡単に真理を踏みつける。
「おおー」
そこまで考えに至らなかった菜々は、感嘆の声をあげた。
本当に、雅は頭がいいんだなと思い知る。
こんな彼女のことを、太宰ならどう書くだろうか。
『とかく高慢ではあるが、雅といふ娘は美しい。美しい十六歳の処女である。それゆえ、彼女は残酷である』
ふと浮かんだ太宰節の勝手な創作に、菜々は笑い出したい気持ちをこらえなければならなかった。
「何? 気持ち悪い顔」
手厳しい雅の一言に、彼女はハエのごとく叩き落される。
「雅は、綺麗な顔だよね」
死に掛けのハエの気分を味わいながら、菜々は何とか羽を動かして飛び上がろうとした。
「何それ? 気持ち悪い」
今度こそ、見事にとどめを刺される。
「美しさなんて、時代によって変わってゆくものだもの。私は、平安時代の美人でありたかったわ」
何で現代に生まれちゃったんだろ。
不満そうに、雅は箸を鳴らす。
どの年代を巡っても、菜々が美人だと思われる時代はないだろう。
いや、サバイバル上等な狩猟生活をしていた石器時代とかなら、まだ何とか──考えていることの空しさに気づいて、菜々は誰ともなしに、あははと苦く笑ってしまった。
「まあでも、十六歳ってだけで、人生の中では一番美しい頃なんだろうから、美しさを使わないのは損よね」
雅の一言は、菜々に大きな衝撃を与えた。
「こ、これがピークなの!?」
思わず、じっとフォークを持つ手を見る。
こんな真っ黒な小猿が、人生のピークなんて考えたくなかったからだ。
「生物学的な本当のピークは、二十歳くらいね。でも、女なんて子供が産める身体になった時点でピークみたいなものでしょ。オスを呼べるようにならないといけないわけだから」
近くの男子生徒が、ブッとペットボトルの飲み物を吹き出したことに気づいてはいたが、菜々はそれどころではなかった。
二十歳。
それは、非常にシビアな年齢だった。
菜々で言えば、あとほんの四年しかないのだ。
雅が言うところの、生物学上一番綺麗な時期でコレというのは、菜々にとってなかなかにしてへこむ事実だった。
「オス……呼べる?」
つい彼女は、雅の言葉をそのままに使ってしまった。
もはや、男子生徒はこっちの方を見ないようにしている。
「大丈夫なんて、私は言わないけど……菜々。世の中には、需要と供給がちゃんとあるのよ」
漢字で書けない言葉を言われても、菜々に理解できるはずがなかった。
※
木曜日は、カチカチ山。
7巻を返しにきた菜々は、それを素直に東先輩に言っていいか、戸惑うところがあった。
彼も読み込んでいるだろうから、あれに出てくる女の子が、『16歳の美しい処女』であることは知っているだろう。
しかし、彼が雅のようにそれをストレートで言うことはないはずだ。
なので。
「知ってたはずのカチカチ山が……違う物語になりました」
兎や狸の表現を避けて、菜々は感想を伝えることにした。
「傑作だね、あれは」
彼も内容を思い出したのだろう。ふふと笑いながら、返却処理の終わった7巻を持ってカウンターを立つ。
菜々を、8巻の側に連れて行ってくれる儀式が始まるのだ。
「あの、女の子はみんな、あそこまで残酷じゃないと……思いますよ」
女性代表で言い訳をしたいわけではないが、菜々はつい弁解めいたことを口にしていた。
たとえ菜々が兎の立場であったとしても、あんなひどいことは出来ないだろう。
「そうかい? でも男の中には、『あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる』よ」
するりと引用された言葉は、いつもよりもっとおかしそうな笑いと共に放たれた。
一体、何を想像したのだろう。
彼も誰かに恋をした時、溺れかかってあがいたのだろうか。
今現在おぼれているなら、笑い事ではないだろうから、その記憶は過去のものなのか。
菜々の思考に、余計なシミが広がっていく。
「曰(いわ)く……」
7巻は戻される。
8巻は抜き出される。
「『曰く、惚れたが悪いか』、だね」
白い毛を持つ狸の唇に──切ない気持ちが浮かんでいるように見えた。
※
『たずねびと』
それが、8巻で東先輩の勧めてくれた作品だった。
東京から青森に疎開する太宰の、厳しい旅路が描かれていた。食べ物に困り、ぼろぼろの身なりになりながらも、彼らは多くの人の情けに助けられる。
太宰は、お礼も言えずに別れてしまった、その時の恩人を探したくて、本文中に何度も同じ言葉を綴っていた。
『「お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です」』
菜々は、『散華』の時とは、違う意味でだらだら泣いてしまって、ティッシュを何枚も無駄にすることとなった。