月宮天子―がっくうてんし―
小屋から湖に向かって桟橋が突き出ており、横付けされたボートは、見える限りで二艘。他にもあるが、ひっくり返ったり、半分沈んだりしている。

だが、小屋に入って来た男は、とくにボートは使わなかったらしい。


なんと上半身裸だ。張り詰めた筋肉と日焼けした肌が、水に濡れて艶めいていた。長めの髪も濡れたせいだろう、リーゼントみたいに張り付いている。


「気がついたか?」


その声を聞いた瞬間、呆けた気持ちが吹き飛んだ。

この男……愛子の首を絞め、攫った男に間違いない。よく響く低い声は忘れようが無かった。


「若様ぁ~用が済んだら、小娘はあたしにくれますよね?」

「やかましい。『月宮天子』の女なら、私の子を産ませるのも一興だ」


濡れた体で床を歩き、若様と呼ばれた男は愛子に近づいた。

愛子は金色の双眸に睨まれ、身動きできなくなる。男の冷たい指先で頬を撫でられ、次の瞬間、髪をグッと掴まれた。


「い、痛い」

「『月宮天子』は、情深い穢れなき乙女が好きなんだそうだ。覚醒前の奴でも同じかな」

「カ、カイは人間よ。『月宮天子』なんかじゃない! 第一、『月宮天子』ってなんなのよ! あなたっていったい……」

「ほう。あの巫女から聞かなかったのか? よかろう。教えてやろう。この氷月(ひょうげつ)がな」


男……氷月は愛子の目を至近距離で覗き込む。氷月の瞳は金色に輝き――。


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