月宮天子―がっくうてんし―
落ちたのは一番小さい子だった。

少女は大声を上げているつもりなのだろうが、声はほとんど出ていない。

その気持ちは愛子にはよくわかった。本当のピンチで大声を張り上げるなんて、思うほど簡単じゃないのだ。


「カイッ!」


愛子が叫んだとき、もう、海が安全のためのベルトを外していた。そのまま、滑り込むように水中に消える。

愛子は、え? と思った。もっと、派手に飛び込むものだとばかり思っていたからだ。

でも、あとから聞くと……。

映画やドラマのように飛び込む必要はなく、第一、溺れている人に正面から近づくのは危険なんだそう。

小さな子供でも、大人を沈めるくらいの力を出すらしい。


海は一旦潜って、男の子の後方からそっと回り込んだのだった。


そのころになって、ようやく岸でも人が騒ぎ始める。

多分、子供達の親なのだろう。母親と祖母といった感じだ。女性ばかりで、誰も飛び込もうとはしない。

そこに、公園の担当者がボートに乗って駆けつけてきた。

彼らは救命胴衣を身に着けている。必要とあれば彼らが飛び込んで助けるのだろう。


だが、そのときにはもう、海が子供を抱えて泳ぎ、彼らのボートに男の子を押し上げていたのだった。


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