EVER BLUE
意識を取り戻した千彩は、変わらぬ蒼白い顔で晴人とマナを迎えた。
繋がれた機械の音と、パタパタと動き回る看護師の靴の音。点滴に繋がれた腕が痛々しくて、晴人はとてもではないが直視していられない。

「千彩、わかるか?」
「は…る」
「ちー!ちー!」
「マナ」

伸ばされた手を取り、マナは心配げに千彩を見下ろしていた。

「ちー」
「マナ、もうすぐべいびー産まれるよー」
「べびー」
「ちさ頑張るからね」

弱々しい声でそう言う千彩は、どうやら鈍い痛みに襲われているようで。グッと眉根を寄せ、それを逃がすようにふぅっとゆっくり息を吐き出した。

「痛いか?」
「痛い…かなぁ」

不思議そうに首を傾げ、千彩はうぅんと唸った。
そんな千彩の頭をゆっくりと撫で、分娩台の脇にマナを座らせる。下ろされたマナは、小さな手で千彩のお腹をスリスリと摩りながら、じっと黙って二人を見つめていた。

「家で何しててん」
「お水飲もうと思ってキッチンに行ったら、急にお腹がお腹が痛くなって…」
「そっか。ごめんな、一人にして。怖かったやろ」

どうしてこんな日に限って一人にしてしまったのだろう。朝からどうも具合が悪いと訴えていたというのに。マリが見つけてくれなければ、今こうして意識を戻していたかも定かではない。

「ごめんな」
「大丈夫。もうはる来てくれたから」
「恵介もメーシーも表で待ってるで。元気な赤ちゃん見せたろな」
「うん」
「ちー」
「マナ、おいでおいでー」

自分のお腹を摩っていたマナの手を取り、千彩はにっこりと笑う。それに反応したマナが、同じようににっこりと笑った。

「マナー、もう寂しくないからねー」
「ちー」
「べいびーが産まれたら、いっぱい遊ぼうね」
「ちー!らびゅー!」

擦り寄るマナをしっかりと抱き、千彩がうっと小さく呻いた。

「痛いんか?」
「うー…大丈夫」
「ちー」
「大丈夫だよー、マナ」

こうしていると二人目の出産のようにも見えなくはないけれど、千彩は間違いなく初産で。どうやら微弱陣痛が続いているらしく、時折苦しそうにはしているけれど、まだまだ産まれそうな気配はなかった。



数時間後、眠ってしまったマナを抱え、看護師が扉の外へと出て来た。それを晴人だと思った恵介が慌てて立ち上がり、目的の人物と違うことにガックリと肩を落とす。

「眠ってしまいました」
「すみません。うちの息子です」
「え?お兄ちゃんじゃなかったんですか?」
「違うんですよ、あはは」

苦笑いをしながらマナを引き取ると、メーシーは「で…」と看護師を呼び止める。

「どうですか?」
「微弱陣痛が続いてます」
「微弱陣痛?大丈夫なんですか?ちーちゃんは?子供は?」
「もう。ちょっとケイ坊は黙ってて。俺がちゃんと話聞くから」

メーシーに制され、恵介はまたもやガックリと肩を落とす。代わりにマナを抱き、スリスリと頬を寄せることで何とか逸る気持ちを遣り過ごした。

「危険は無いんですか?」
「そうですね…意識を失われていた時間が長いので、随分と赤ちゃんが弱ってます」
「普通分娩は難しそうですか?」
「お母さんと赤ちゃんの体力次第ですが、長くはかかると思います。破水はしていますが、子宮口が全く開いてませんので」
「そうですか。よろしくお願いします」

深々と頭を下げ、メーシーは去って行く看護師を見送る。
うずうずとしている恵介からマナを受け取り、黙って休憩スペースへと移動を促した。

「メーシー…」

沈黙を破ったのは、やはり不安に押し潰されそうになっている恵介で。千彩の様子が確認出来ず、加えて難しい単語が飛び交うものだから、もう辛抱堪らなくなっていた。

「ケイ坊はさ、どっちが助かって欲しい?」

ふざけているのか!と、恵介は思わず口を突いて出そうになった。
けれども、重苦しく圧し掛かる空気がそれを諌める。


「マナを産む時、実は俺も医者に訊かれてさ。迷わず麻理子を助けてくれって答えたんだ。もしもの時は子供は諦めるからって」


ごめんね。とマナの頬に擦り寄りながら、メーシーは言葉を続ける。

「王子は、姫の望む方を助けてやってほしいって言ったんだって。姫なら、どっちを助けてって言うだろうね」
「ちーちゃん…」

千彩のことだから、きっと子供を助けてくれと言うのだろう。二人の思いは同じだった。

その時、ぐっすり眠っていたはずのマナがパチリと双眸を開き、ベチンとメーシーの頬を力一杯引っ叩いた。

「え?痛いよ、マナ」
「ちー!ちー!」

ジタバタと手足を動かし、寝起きのはずのマナが暴れ始める。その異常な様に、思わず二人は顔を見合せて分娩室の前へと駆けた。

「晴人っ!」「王子っ!」「ちー!」

真っ青な顔をした晴人が、ヨロヨロと分娩室から出て来る。それを慌てて支え、恵介は晴人の体をそっとベンチへと下ろした。

「ちー?ちー?」
「千彩…あかんかもしれん」
「ちー?」
「愛斗…」

メーシーからマナを奪い取り、抱き締めて晴人が涙を零す。
声を掛けられずにいる大人二人に代わり、マナが何度も千彩の名を呼ぶ。それが泣き声に変わったのは、それから五分も経たないうちだった。


グズグズと泣くマナに手こずるメーシーの代わりを買って出たのは、遅れて到着した晴人の母だった。初めは嫌がっていたマナも熟練の腕には敵わず、すんなりと眠りに落ちた。

「すみません、ご迷惑おかけして」
「ええんよ。お利口な子やね」

にこにこと笑いながら、母は愛おしそうにマナを抱いて左右に揺らしている。

「おばちゃん…」
「落ち着きなさい、恵介君。そないそわそわしてもしゃーないでしょ」
「何でおばちゃん一緒に居ったってくれんかったん!」
「そない言われたかて、急にお通夜が入ったんやもの。その言葉は晴人に言うて」
「ちーちゃん…大丈夫やろか…」
「あんたがそんな顔してたら、晴人が泣いてしまうわ」

わしゃわしゃと恵介の頭を撫でるのは、晴人にそっくりな晴人の母親で。堪らず泣き出した恵介にふふふっと笑い声を洩らし、マナを抱いたままゆっくりとベンチへ腰掛けた。


「あの子は…どっち選ぶんかしらねぇ」


母の言葉が、ズッシリと二人の胸の奥を重くした。



再び分娩室から出て来た晴人は、もうすっかり精気を無くしていて。母の姿を見つけるなり、ボロボロと涙を零し始めた。

「かーさん…」
「ほら。恵介君がそんな顔するから晴人まで泣いてしもたやないの」

ヨロヨロと歩く晴人に続き、手術着姿の医師が姿を現した。

「お世話になってます」
「お母様ですか?」
「はい。娘の容態は如何ですか?」
「非常に…危険な状態です」

医師の言葉に、メーシーまでもがうっと溢れそうになる涙を堪えた。

「このままでは、母子ともに危険です」
「それで…あの子は何と言ってましたか?」
「お子さんを助けるように。と、おっしゃっていました」
「…そうですか。では、そうしてやってください」

諦めきれない晴人が、ギュッと母の腕を掴む。そっと肩を抱き、母は柔らかな声で晴人を諭す。


「母親はね、子供のためなら命なんか惜しくないんよ。お母さんだって、あんたのためなら命なんか惜しくない。覚悟決めなさい」


お願いします。と母が再度頭を下げると、分娩室に戻った医師がストレッチャーに乗った千彩と共に姿を現した。

「ちーちゃんっ!」
「姫っ!」

随分と衰弱している様子の千彩に呼び掛けるも、一切反応は無い。最期になるかもしれない…と、手術室へと運ばれる千彩の手を握りながらピッタリと隣を着いて歩く。

「ちーちゃん、頑張れ!待ってるからな!」

「姫、頑張って。麻理子もレイも待ってるよ」

「ちーちゃん。もうすぐパパもお兄さんも来るからね。大丈夫やからね」

それぞれに言葉を掛け、最後に晴人がそっと千彩の左手を取る。その指に嵌められてやっと一年経った指輪をそっとなぞり、愛おしそうに目を伏せる。


「千彩…愛してる。戻って来てくれよ、頼むから」


その言葉にまで反応を示さなかった千彩がゆっくりと瞼を持ち上げたのは、目を覚ましたマナが泣きながら必死に千彩の名を呼んだ時だった。

「ちー!ちー!」

メーシーに抱き上げられてペチペチと頬を叩くマナに、千彩は消えそうな声でこう告げた。


「マナ…らびゅー」


何でマナなのだ。と涙を零す晴人に、千彩は弱々しい笑顔を見せる。

「パパ…聖奈をお願い…ね」
「おぉ。任せとけ、ママ」
「ありが…とう」
「しっかりな?絶対戻って来いよ?待ってるからな」
「…うん」

そこで、再びプツリと千彩の意識が途切れる。運ばれて来てから数時間ずっとこの調子で、もはや千彩も子供も限界に近い状態なのだ。

ストレッチャーを見送り、大人四人と幼児一人は待合室でただただ祈る。



暫くして手術室から出て来たのは、小さな箱に入れられてストレッチャーに乗った赤ん坊だった。

「聖奈っ!」

駆け寄り、晴人は千彩とつけたばかりの名を呼ぶ。産声さえ上げられない程に弱った娘の姿に、止まっていたはずの晴人の涙が再び零れ落ちた。

「暫くこちらでお預かりしますので」
「大丈夫なんですか?」
「衰弱していますが、大丈夫です。任せてください」
「お願いします」

深々と頭を下げ、再び手術室の前へと戻る。
遅れて駆け付けた晴人の父と吉村、そして痺れを切らして乗り込んで来たマリと、その腕に抱かれるレイ。勢揃いで待つのは、出産したばかりの千彩だ。


扉が開き、色んな機械とチューブに繋がれた千彩が姿を現す。勿論意識は無く、響く機械音もとても弱々しいものだった。

「ちー坊…何でや…何でこないなこと…」

グッと言葉を詰まらせた吉村の肩を抱き、晴人の父もグッと目頭を押さえる。


「千彩、よぉ頑張ったな。聖奈は無事やったぞ。ありがとうな」


隣を着いて歩きながら、晴人は優しく声を掛ける。そこに待ったを掛けたのが、バッチリと双眸を開いて千彩を待ち続けていたマナだ。

「ちー!ちー!」
「マナ、姫は今眠ってるからね」
「ちー」
「元気になったらまた遊べるから。ね?」
「ちー」

そこまで懐いていたのか…と、大人達は驚きを隠せない。グッと歯を食いしばったマナは、グイッと親指を立てて千彩を見送った。

「ぐっじょー」

good job!と言いたいのだろうけれど、その拙い言葉を理解出来るのは、残念ながら今眠っている千彩だけだった。



集中治療室に運ばれた千彩は、朝が来ても昼が来ても目を覚ます気配は無かった。

疲労と心労にぐったりとする大人達とは対照的に、マナはベンチに腰掛けたままジッとガラス越しの千彩の姿を見つめていた。

「マナ、一度帰ろうか?」
「やー」
「ママとレイが待ってるよ?」
「やー」
「それじゃ、お風呂に入って、お着替えしよう?目を覚ました時にマナが汚いままだったら、姫がびっくりするよ?」
「うー」

漸く応じてくれた息子を腕に抱き、メーシーはポンッと晴人の肩を叩く。

「一度帰るね?所長に報告してからまた来るよ」
「おぉ。ごめんな、迷惑かけて」
「仕事のことは心配要らないから。王子は姫の心配だけしてればいいよ」
「ありがとな、メーシー」

疲れきって眠ってしまった恵介をチラリと横目で見遣り、晴人は大きなため息をつく。

「少し娘の顔でも見てくれば?」
「そう…やな」

そう応えたものの、到底そんな気にはなれそうもない。愛しい娘も、千彩が居てこそ、なのだから。

クルリと左手の薬指に嵌まった指輪を回し、そっとそこに口づける。

早く抱きしめてやりたい。
そんな想いばかりが晴人の心を支配した。
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