EVER BLUE
公園少年
それは、彼女が小学4年生の時だった。
「ちーちゃん、ただいま。お友達を連れて来ました」
ヨレヨレのTシャツにドロドロのズボン、色褪せたキャップを被った少年の手を引いて、三木家の長女「聖奈」は帰宅した。
「お友達?」
当然「お友達」は女の子だと思って迎えに出た千彩は、少年の姿にこてんと首を傾げてうぅん…と唸る。
「そこの公園でお友達になりました。おやつください」
「あっ…うん。じゃあ二人で手洗っておいで」
手を洗ったところでどうにかなりそうにはないほどに汚れた少年だったけれど、かれこれ10年女の子だけを育ててきた千彩は、「まぁ、男の子やし…」と相変わらず呑気だった。
「今日のおやつは何ですか?」
「今日はねー、スイートポテト!」
手を洗ってリビングにやってきた二人に、千彩はプラスチックでできた花形の皿の上に乗った自信作を見せて「ふふん」と自慢げに鼻を鳴らす。
「お芋ですか?」
「そう!甘くておいしいよ」
皿を二つとオレンジジュースを注いだグラスを二つ並べ、千彩は「さぁ、どうぞ」と二人を促す。
滅多に一人で外に出ることのない千彩は、家の中という小さな世界で楽しむ術を知っていた。特に凝ったのが料理。三度の食事は勿論のこと、晴人のお弁当も聖奈のおやつも色々と研究して手作りし、それをお披露目するのが日々の大きな楽しみだなのだ。
今日は食べてくれる人物が一人多い。それだけで千彩は大満足だ。
「いただきます!」
「…いただきます」
「はい、どーぞ」
フォークを使って口に運ぶ聖奈と、手で掴んで口に運ぶ少年。お行儀がどうだと煩い晴人がいない分、「男の子もいいなー」とやはり千彩は呑気だった。
「おいしい?」
「おいしいです!さすがちーちゃんです!」
「えへへー。ぼくもおいしい?」
笑顔で尋ねると、少年はコクリと頷いた。
「お名前は?」
「…りゅーじ」
「セナと同じクラス?」
「学校…行ってない」
「りゅーじ」と名乗ったその少年の瞳は、何を映しているのかわからないほどに濁ってしまっていて。そんなりゅーじの瞳を見つめ、千彩はグッと唇を噛んだ。
「ちーちゃん?」
そんな千彩の姿に、聖奈が不安げに名を呼ぶ。
「ちさと…いっしょ」
「ちーちゃん?」
「りゅーちゃん、パパとママは?」
「いない」
「いないの?誰と住んでるん?」
「とーちゃん。でも、とーちゃん帰ってこねぇし」
俯いたりゅーじが、ボソリと呟いた。そんな姿に、千彩の胸がグッと締め付けられる。
自分も学校には行っていなかった。ずっと母親と一緒に家に篭り、その母親も度々家を留守にした。そして、お兄様が来るようになるまでは字も書けずに育った。
そんな幼い頃の自分と、目の前で俯くりゅーじの姿が重なる。
「りゅーちゃんのママは?」
「かーちゃんはいない。俺産んでどっか行った」
「そっか…」
モグモグと口を動かしながら頷くりゅーじの頭を、聖奈の小さな手がそっと撫でる。
「ちーちゃん、りゅーちゃんお泊りしてもいいですか?」
「お泊り?」
「りゅーちゃんのパパはお仕事が忙しいので、お家に帰って来ないそうです。お金が無いので、りゅーちゃんはご飯が食べられません」
「ご飯食べてないの!?いつから!?」
「…昨日」
だったらこれじゃ足りない!と、千彩は慌ててキッチンへ向かう。
「すぐご飯作るから!」
「…いい」
「でも、お腹空いたでしょ?」
「いい」
俯くりゅーじが、小さくとも強い言葉を返す。
どうしよう…と戸惑う千彩だったけれど、玄関から聞こえた声に一転、パッと表情を明るくさせて声の方へと足早に向かった。
「ただいまー」
「はるっ!おかえりー!」
ペタペタと駆け寄って来た千彩を抱き止め、晴人は首を傾げる。
「セナは?」
「んー、リビング」
「誰か来てるんか?」
玄関には、ドロドロに汚れた小さなスニーカー。これはいったい…と、帰宅したばかりの晴人は状況が呑み込めないでいた。
「セナのお友達が来てる」
「友達?」
「うん。りゅーじってゆう男の子」
「男の子!?」
それならそうと早く言え!と思いながら、晴人は愛しい娘の「お友達」の品定めのためにリビングへと足を急がせた。
「ただいま、セナ」
「おかえりなさい、はる」
いつもならば千彩と揃って迎えに出て来る聖奈が出て来ないだけでも大事なのに、今日に限っては男の「お友達」とやらを連れて来ている。晴人の中ではとんでもない緊急事態だった。
そう、聖奈と並んでおやつを食べているりゅーじの姿を見るまでは。
「この子…」
続く言葉が見当たらず、晴人はじっとりゅーじを見つめたまま黙り込んだ。そんな晴人のシャツの裾を、玄関から戻った千彩がちょいっと引く。
「りゅーちゃんね、家に誰もおらんのやって」
「は?」
「ママはいなくって、パパもお仕事で家に帰って来ないんやって」
「何や、それ」
「学校も行ってないって」
昔どこかで聞いたことがあるような話だな。と、晴人は眉間に皺を寄せてチラリと聖奈を見遣る。すると、しっかりおやつを完食した聖奈がりゅーじの肩をポンッと叩いた。
「りゅーちゃん、はるです」
「…はる」
「はるはカメラマンなので、お仕事さえ終われば早く帰って来れるんです」
「カメラマン…俺のとーちゃんモデルだった」
「そうなんですか?はる、知ってますか?」
「いやいや。俺がモデル全員知ってる思うたら大間違いやぞ、娘」
あまりに突拍子もない質問に、強張っていた晴人の表情が緩む。
そして、聖奈の表情を見てそれが策略だったことに気付き、晴人はふっと短く笑って腰を屈めた。
「リュージ、ゆうんか?」
「…うん」
「家どこや」
「公園の向こう」
公園の向こう側には、ファミリー向けのマンションや一戸建てが並んでいる。そのどれもが温かな家庭で埋まっていそうで、うーん…と考えてみるも、こんな子供が放置されている家があるようには思えなかった。
「パパ、いつから帰ってないんや?」
「覚えてない」
「メシどないしてるんや」
「コンビニ」
「でも、もうお金が無いんですよね?」
聖奈の言葉に、晴人はニカッと笑ってりゅーじの頭をポンポンと撫でる。
「メシ、食ってけ。千彩の作るメシは美味いぞ」
「…いい」
「その前に風呂やな。よし!風呂入るぞ、リュージ!」
くしゃくしゃとりゅーじの頭を撫で、晴人は笑う。そしてじっと聖奈を見つめ、その手をポンッと聖奈の頭の上に乗せた。
「よぉやった、セナ」
「セナはお友達を連れて来ただけです」
「ご褒美に恵介にプリン買うてきてもらえ。あいつの帰りは…19時くらいかな。服のサイズは150な」
「わかりました」
それだけで通じ合った二人のやり取りに、千彩は「んん?」と不思議そうに首を傾げる。そんな千彩ににっこりと微笑みかけ、晴人は一度大きく頷いた。
「メシよろしくな、ママ」
「ママ…うんっ!」
その一言で嬉しそうに笑う千彩は、まだ事の重大さを理解していなかった。
男二人をバスルームへ見送ると、聖奈は千彩のスカートの裾をちょんと引いて小さな手を差し出した。
「ん?」
「けーちゃんに電話するので、携帯を貸してください」
「あっ!プリン?」
「そうです」
詳しいことは言わず、聖奈は首を縦に振る。千彩に言ってもわからない。プリンで釣るのが一番だ。と、幼いながらに聖奈もわかっている。
『もしもーし』
「けーちゃん、セナです」
『おおっ!マイエンジェル!どうした?』
数回のコールの後に出た恵介は、相手が聖奈だとわかるとそれはそれはご機嫌で。今となっては、「独占大魔王晴人」のおかげで抱き締めるどころか、千彩の頭を撫でることさえ叶わない。それならば娘を!と、恵介は聖奈を猫可愛がりしているのだ。
「帰りにお洋服を買って来てほしいんです」
『洋服?何か欲しいもんあったんか?』
「はるからのお願いです」
『晴人が?何や、珍しい』
もう作るな!と言われることは多々あれど、買って来いと言われることはまず無い。よほど良い物があったか!と、わくわくと胸を躍らせながら、恵介は聖奈の言葉を待った。
「150センチの、男の子用です」
『え?男の子?』
「はい。上下とパンツ、出来ればパジャマもお願いします」
『ちょっと!ちょっと!どうゆうこと!?』
「帰ってきたらはるが説明します」
『え?えぇ?』
「あと、ちーちゃんのプリンもお願いします」
その言葉に、千彩の表情がパッと晴れる。
不安げに二人の会話を聞いていた千彩が心配していたものは、勿論自分の大好物のプリンだ。その単語がいつ出るのか心配していた千彩は、最後の最後に漸く出たことでホッと胸を撫で下ろした。
「ちゃんとお願いしましたよ」
「ありがとう!」
結局最後まで恵介に事情を説明しないまま電話を切った聖奈は、自分用のエプロンを着けて晴人によく似た笑顔を見せた。
「セナもお手伝いします」
「うん!じゃあ一緒にしよう!」
お揃いのエプロンを着けた母娘は、身長差はあれどそっくりで。晴人にしても恵介にしても、「ちっちゃい頃の千彩や!」と目一杯の愛情を注いで大切に聖奈を育てている。
「りゅーちゃん、泊まるんかな?」
「だと思いますけど」
そのつもりでパジャマもお願いしたのだ。と、聖奈は言葉には出さずじっと千彩を見上げた。
「じゃあ、みんなで一緒に寝よう!」
「え?」
「けーちゃんのお部屋にお布団引いて、みんなで!」
嬉しそうに笑う千彩に、ツッコミをグッと堪えて聖奈は頷いた。
三木家には、千彩が「けーちゃんのお部屋」と呼ぶ和室がある。
聖奈が幼い頃はおもちゃなどを置いて遊び場にしていたのだけれど、小学校へ上がると同時にそこは恵介が二人分の洋服を溜めていく部屋に代わってしまった。
散々晴人に「やめろ!」と言われているのだけれど、恵介にとってはそれが楽しみで仕方がない。仕事で衣装を見に行っても、どうしてもこの母娘の姿が頭から離れない。あれが似合う!これも似合う!と思って余分に買ううちにとうとう部屋がいっぱいになるという事態に陥り、晴人から大きな雷を落とされたのは聖奈の記憶にも新しい。
「余計な物を買って来なければいいですけど…」
そう心配していた聖奈は、数時間後に帰って来た恵介の両手を見てガックリと肩を落とすこととなる。
「ちーちゃん、ただいま。お友達を連れて来ました」
ヨレヨレのTシャツにドロドロのズボン、色褪せたキャップを被った少年の手を引いて、三木家の長女「聖奈」は帰宅した。
「お友達?」
当然「お友達」は女の子だと思って迎えに出た千彩は、少年の姿にこてんと首を傾げてうぅん…と唸る。
「そこの公園でお友達になりました。おやつください」
「あっ…うん。じゃあ二人で手洗っておいで」
手を洗ったところでどうにかなりそうにはないほどに汚れた少年だったけれど、かれこれ10年女の子だけを育ててきた千彩は、「まぁ、男の子やし…」と相変わらず呑気だった。
「今日のおやつは何ですか?」
「今日はねー、スイートポテト!」
手を洗ってリビングにやってきた二人に、千彩はプラスチックでできた花形の皿の上に乗った自信作を見せて「ふふん」と自慢げに鼻を鳴らす。
「お芋ですか?」
「そう!甘くておいしいよ」
皿を二つとオレンジジュースを注いだグラスを二つ並べ、千彩は「さぁ、どうぞ」と二人を促す。
滅多に一人で外に出ることのない千彩は、家の中という小さな世界で楽しむ術を知っていた。特に凝ったのが料理。三度の食事は勿論のこと、晴人のお弁当も聖奈のおやつも色々と研究して手作りし、それをお披露目するのが日々の大きな楽しみだなのだ。
今日は食べてくれる人物が一人多い。それだけで千彩は大満足だ。
「いただきます!」
「…いただきます」
「はい、どーぞ」
フォークを使って口に運ぶ聖奈と、手で掴んで口に運ぶ少年。お行儀がどうだと煩い晴人がいない分、「男の子もいいなー」とやはり千彩は呑気だった。
「おいしい?」
「おいしいです!さすがちーちゃんです!」
「えへへー。ぼくもおいしい?」
笑顔で尋ねると、少年はコクリと頷いた。
「お名前は?」
「…りゅーじ」
「セナと同じクラス?」
「学校…行ってない」
「りゅーじ」と名乗ったその少年の瞳は、何を映しているのかわからないほどに濁ってしまっていて。そんなりゅーじの瞳を見つめ、千彩はグッと唇を噛んだ。
「ちーちゃん?」
そんな千彩の姿に、聖奈が不安げに名を呼ぶ。
「ちさと…いっしょ」
「ちーちゃん?」
「りゅーちゃん、パパとママは?」
「いない」
「いないの?誰と住んでるん?」
「とーちゃん。でも、とーちゃん帰ってこねぇし」
俯いたりゅーじが、ボソリと呟いた。そんな姿に、千彩の胸がグッと締め付けられる。
自分も学校には行っていなかった。ずっと母親と一緒に家に篭り、その母親も度々家を留守にした。そして、お兄様が来るようになるまでは字も書けずに育った。
そんな幼い頃の自分と、目の前で俯くりゅーじの姿が重なる。
「りゅーちゃんのママは?」
「かーちゃんはいない。俺産んでどっか行った」
「そっか…」
モグモグと口を動かしながら頷くりゅーじの頭を、聖奈の小さな手がそっと撫でる。
「ちーちゃん、りゅーちゃんお泊りしてもいいですか?」
「お泊り?」
「りゅーちゃんのパパはお仕事が忙しいので、お家に帰って来ないそうです。お金が無いので、りゅーちゃんはご飯が食べられません」
「ご飯食べてないの!?いつから!?」
「…昨日」
だったらこれじゃ足りない!と、千彩は慌ててキッチンへ向かう。
「すぐご飯作るから!」
「…いい」
「でも、お腹空いたでしょ?」
「いい」
俯くりゅーじが、小さくとも強い言葉を返す。
どうしよう…と戸惑う千彩だったけれど、玄関から聞こえた声に一転、パッと表情を明るくさせて声の方へと足早に向かった。
「ただいまー」
「はるっ!おかえりー!」
ペタペタと駆け寄って来た千彩を抱き止め、晴人は首を傾げる。
「セナは?」
「んー、リビング」
「誰か来てるんか?」
玄関には、ドロドロに汚れた小さなスニーカー。これはいったい…と、帰宅したばかりの晴人は状況が呑み込めないでいた。
「セナのお友達が来てる」
「友達?」
「うん。りゅーじってゆう男の子」
「男の子!?」
それならそうと早く言え!と思いながら、晴人は愛しい娘の「お友達」の品定めのためにリビングへと足を急がせた。
「ただいま、セナ」
「おかえりなさい、はる」
いつもならば千彩と揃って迎えに出て来る聖奈が出て来ないだけでも大事なのに、今日に限っては男の「お友達」とやらを連れて来ている。晴人の中ではとんでもない緊急事態だった。
そう、聖奈と並んでおやつを食べているりゅーじの姿を見るまでは。
「この子…」
続く言葉が見当たらず、晴人はじっとりゅーじを見つめたまま黙り込んだ。そんな晴人のシャツの裾を、玄関から戻った千彩がちょいっと引く。
「りゅーちゃんね、家に誰もおらんのやって」
「は?」
「ママはいなくって、パパもお仕事で家に帰って来ないんやって」
「何や、それ」
「学校も行ってないって」
昔どこかで聞いたことがあるような話だな。と、晴人は眉間に皺を寄せてチラリと聖奈を見遣る。すると、しっかりおやつを完食した聖奈がりゅーじの肩をポンッと叩いた。
「りゅーちゃん、はるです」
「…はる」
「はるはカメラマンなので、お仕事さえ終われば早く帰って来れるんです」
「カメラマン…俺のとーちゃんモデルだった」
「そうなんですか?はる、知ってますか?」
「いやいや。俺がモデル全員知ってる思うたら大間違いやぞ、娘」
あまりに突拍子もない質問に、強張っていた晴人の表情が緩む。
そして、聖奈の表情を見てそれが策略だったことに気付き、晴人はふっと短く笑って腰を屈めた。
「リュージ、ゆうんか?」
「…うん」
「家どこや」
「公園の向こう」
公園の向こう側には、ファミリー向けのマンションや一戸建てが並んでいる。そのどれもが温かな家庭で埋まっていそうで、うーん…と考えてみるも、こんな子供が放置されている家があるようには思えなかった。
「パパ、いつから帰ってないんや?」
「覚えてない」
「メシどないしてるんや」
「コンビニ」
「でも、もうお金が無いんですよね?」
聖奈の言葉に、晴人はニカッと笑ってりゅーじの頭をポンポンと撫でる。
「メシ、食ってけ。千彩の作るメシは美味いぞ」
「…いい」
「その前に風呂やな。よし!風呂入るぞ、リュージ!」
くしゃくしゃとりゅーじの頭を撫で、晴人は笑う。そしてじっと聖奈を見つめ、その手をポンッと聖奈の頭の上に乗せた。
「よぉやった、セナ」
「セナはお友達を連れて来ただけです」
「ご褒美に恵介にプリン買うてきてもらえ。あいつの帰りは…19時くらいかな。服のサイズは150な」
「わかりました」
それだけで通じ合った二人のやり取りに、千彩は「んん?」と不思議そうに首を傾げる。そんな千彩ににっこりと微笑みかけ、晴人は一度大きく頷いた。
「メシよろしくな、ママ」
「ママ…うんっ!」
その一言で嬉しそうに笑う千彩は、まだ事の重大さを理解していなかった。
男二人をバスルームへ見送ると、聖奈は千彩のスカートの裾をちょんと引いて小さな手を差し出した。
「ん?」
「けーちゃんに電話するので、携帯を貸してください」
「あっ!プリン?」
「そうです」
詳しいことは言わず、聖奈は首を縦に振る。千彩に言ってもわからない。プリンで釣るのが一番だ。と、幼いながらに聖奈もわかっている。
『もしもーし』
「けーちゃん、セナです」
『おおっ!マイエンジェル!どうした?』
数回のコールの後に出た恵介は、相手が聖奈だとわかるとそれはそれはご機嫌で。今となっては、「独占大魔王晴人」のおかげで抱き締めるどころか、千彩の頭を撫でることさえ叶わない。それならば娘を!と、恵介は聖奈を猫可愛がりしているのだ。
「帰りにお洋服を買って来てほしいんです」
『洋服?何か欲しいもんあったんか?』
「はるからのお願いです」
『晴人が?何や、珍しい』
もう作るな!と言われることは多々あれど、買って来いと言われることはまず無い。よほど良い物があったか!と、わくわくと胸を躍らせながら、恵介は聖奈の言葉を待った。
「150センチの、男の子用です」
『え?男の子?』
「はい。上下とパンツ、出来ればパジャマもお願いします」
『ちょっと!ちょっと!どうゆうこと!?』
「帰ってきたらはるが説明します」
『え?えぇ?』
「あと、ちーちゃんのプリンもお願いします」
その言葉に、千彩の表情がパッと晴れる。
不安げに二人の会話を聞いていた千彩が心配していたものは、勿論自分の大好物のプリンだ。その単語がいつ出るのか心配していた千彩は、最後の最後に漸く出たことでホッと胸を撫で下ろした。
「ちゃんとお願いしましたよ」
「ありがとう!」
結局最後まで恵介に事情を説明しないまま電話を切った聖奈は、自分用のエプロンを着けて晴人によく似た笑顔を見せた。
「セナもお手伝いします」
「うん!じゃあ一緒にしよう!」
お揃いのエプロンを着けた母娘は、身長差はあれどそっくりで。晴人にしても恵介にしても、「ちっちゃい頃の千彩や!」と目一杯の愛情を注いで大切に聖奈を育てている。
「りゅーちゃん、泊まるんかな?」
「だと思いますけど」
そのつもりでパジャマもお願いしたのだ。と、聖奈は言葉には出さずじっと千彩を見上げた。
「じゃあ、みんなで一緒に寝よう!」
「え?」
「けーちゃんのお部屋にお布団引いて、みんなで!」
嬉しそうに笑う千彩に、ツッコミをグッと堪えて聖奈は頷いた。
三木家には、千彩が「けーちゃんのお部屋」と呼ぶ和室がある。
聖奈が幼い頃はおもちゃなどを置いて遊び場にしていたのだけれど、小学校へ上がると同時にそこは恵介が二人分の洋服を溜めていく部屋に代わってしまった。
散々晴人に「やめろ!」と言われているのだけれど、恵介にとってはそれが楽しみで仕方がない。仕事で衣装を見に行っても、どうしてもこの母娘の姿が頭から離れない。あれが似合う!これも似合う!と思って余分に買ううちにとうとう部屋がいっぱいになるという事態に陥り、晴人から大きな雷を落とされたのは聖奈の記憶にも新しい。
「余計な物を買って来なければいいですけど…」
そう心配していた聖奈は、数時間後に帰って来た恵介の両手を見てガックリと肩を落とすこととなる。