私を抱いてください
ピアノ
「私、彼氏が出来たんです」
鍵盤の上で、指先を踊らせる。
猫のようにしなやかに、先生の指の動きを思い出しながら指を動かす。
心の震えをおくびにも出さないで、私はピアノを奏でていた。
私が先生と出会ったのは、まだランドセルを背負っていた頃。
母に入れられたピアノ教室で一目惚れした。
それからもう十年。
私は彼と唯一会えるこの場所に通い続けている。
「引き留めるなら、今ですよ」
例え二人っきりのレッスンでも、彼は私だけを見てくれない。
私は彼を独占出来ない。
初めて会った時からずっと、彼の左手の薬指に居座る指輪。
彼が指輪を外すのは、本気でピアノを弾くときだけ。
レッスン中でさえ、ずっとつけている。
彼を独占出来るのは、ピアノと奥さんだけ。
私はそのどちらでもないかった。
ピアノを弾く手を止めて彼を見上げても、困ったような顔しかしていない。
この十年、私が彼を求めるたびに見せてきた顔。
「なにか言ってくださいよ、先生!」
椅子から立ち上がり、彼に詰め寄る。
十年の年月を経ても変わらない思い。
十年の年月を重ねて、こんなにも深く降り積もってしまった。
「私、人のモノになっちゃうんですよ。その人に抱きしめられたり、キスされたり、セックスだって……!」
いくら私が思いを伝えても、心を押しつけても、彼との距離は縮まらない。
左手の指輪は消えない。
なのに諦められない。
決して揺るがない指輪の存在ごと、その高潔さごと愛してしまったなんて。
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