ソバカス隊長と暗闇の蜜蜂
結局、ニーナは夜遅くに迎えに来た、実家全員とともに帰っていった。それを見送って、ようやくライマーは肩の荷を下ろして家の扉を閉じる。
帰りたくないと言っていたニーナだったが、ノルディがずっと泣いているのを見てどんどん気勢を失っていった。
自分より年上のノルディが、こんなに泣くほど怖い場面だったのだと、ようやくにして理解し始めたようだ。どんなライマーの説教よりも、それが一番こたえたのだろう。しょんぼりと肩を落として、これまた目を真っ赤に泣き腫らした母親に抱きしめられた後、二発ぶたれても一緒に帰って行った。
ひっくと食堂の椅子に座ったままのノルディは、まだ少ししゃくりあげている。何回もライマーはその顔を拭いてやり、不慣れながらお湯をわかして温かいお茶を入れた。明日の朝、ノルディに片付けさせるのが申し訳ない有様だったが、いまはまだそれを詫びる余裕はライマーにはない。
ご飯を食べるどころではないが、おなかがすいているわけでもない。ノルディの涙はもうある程度は止まっているが、身体に力が入ってはおらずそこから動けそうになかった。
「ノル、寝室に行こう、ね?」
そんな彼女の隣の椅子に座って、顔を覗き込むように告げる。力なくこくんと頷くノルディに手を回し、向かい合うように逆向きに抱き上げる。危なくないようにお尻を腕で持ち上げると、ノルディの方が高い目の位置になる。狭い階段を上るには、これが一番ちょうどよい形だった。彼女が身体の全てを預けてくれるのを感じ、ライマーはその現実的な重みに安堵する。
ああ、本当に何事もなくてよかった、と。
「ライマー……」
「うん、いるよノル」
危ないので手燭を持たずに暗い階段を上っていると、それが怖いのか名前を呼ばれる。だから背中に回した手でぽんぽんと軽く叩いて安心させる。
「あなた」でもなく「ライマー」と呼んで、他の誰でもなく自分を頼ってくれる妻をいじらしく思わないはずがない。可愛らしく思わないはずがない。
「明日は休みを取るからね、一緒にいるから大丈夫だよ」
そのまま二階の寝室へ入る。やはり真っ暗だが、ライマーは気にせずすたすたと歩く。彼女を寝台に座らせ、扉を閉めに戻ろうとしたが、その身体がぐんっと引き戻された。振り返ると、ノルディに腕を掴まれていた。
ま、いっかとライマーはあっさり扉を閉めに行くことをやめた。この家に住んでいるのは、二人きり。寝室の扉が開いていることくらい、何の問題もない。
「いるよ、ノル。可愛い私のノル……今日は妹を助けてくれてありがとう。ノルが見つけてくれなきゃ、どうなってたか分からないよ」
ライマーは座っている彼女の頬に両手をあて、おでこをくっつけてぐりぐりとすりつける。
「私……夢中で……どうしたらいいか分からなくて」
思い出したのか、また泣きそうな声になっていく妻に、ノル、ノルと何度も呼びかけて自分の方に意識を向けさせる。
「大丈夫、よくやったよ。ありがとう。愛してるよノル……私のノル。泣くくらいなら私をぶっておくれ。どうして基地にいなかったのか、どうして近道をしたのかとぶっておくれ」
ちゅちゅと、顔のあちこちにキスをしながらライマーは彼女を泣き止ませようと必死になった。
「早く帰ればそれだけ早くノルの顔が見られると、近道しながらもスキップしていた私をぶっておくれ」と言った時、「まあ」と目の前からようやく漏れる泣き笑い。
「今度から、大通りを必ず走って帰ってくるよ。もう絶対すれ違ったりしないから安心して。スキップもやめるから」
ノルに少し笑いが戻ると、ライマーも嬉しくなる。更に調子に乗って言葉を続けると、「もう……」と小さく胸をぶたれた。ますます嬉しくなる。
少しノルディの身体に体温が戻ってきたところで、真っ暗な中でようやく唇を合わせる。舌を絡めると、おずおずとノルディがそれに応える。
「ん……ん……」と苦しげになった妻の声に唇を離した。
「あー……疲れてるよね、ノル」
こんな日にも、健康的な自分の身体は可愛い妻に反応してしまう。ここは甲斐性のある男として、優しくだっこで眠るのがベストだと分かっていても、ライマーは往生際が悪かった。こんなことでは、ひどい男だとノルディに思われてしまうだろうと、彼が泣く泣くあきらめようとした時。
ノルディが、「疲れて……ません」と、熱っぽい声で答えるではないか。「へ?」と、これにはさすがのトット大佐も、間抜けな声を出してしまった。
「疲れてません……ライマー……手を離さないで」
ぎゅっと腕を握られ、ライマーは一瞬ぽかんとした後、自分の中で大きな水音を聞いた。
ドドドドドドドドと、次第に大きくなるその音が自分の心臓の音だと気づいたのは──強くノルディを寝台に押し倒して抱きしめた後のことだった。
翌日、元気になったノルディと休みを取ったライマーは、大通りの二階に住む老婆へお礼の料理を届けに行く。その際、根掘り葉掘り聞かれたが、妹が家を飛び出して探しに出たと答えたところ、予想よりたいしたことのない内容に残念そうに納得したようだった。
全てを説明すれば、老婆の好奇心は満足したかもしれないが、もはやそれは語られるべきことではなかった。
それよりライマーには、大事な仕事がひとつ増えた。犯罪組織のかどわかしの実態解明である。ぐうの音も出ないほど、絞り上げてやるつもりだった。
その日の夕方前、実家から義母が娘とともに詫びに来た。家族なのだから気にしなくていいと言ったものの、相変わらずの義母の押しの強さが苦手なライマーは、母娘で手作りしたというドライフルーツの入った巨大なクーヘンを押し付けられる。
どうやら今日の夕食は、このクーヘンが主食になるようだ。
そんなクーヘンを真ん中に載せた食卓を挟んで、ライマーは妻と二人で座る。今日のお茶は、勿論ノルディが入れてくれた。
今朝は、昨夜食べられなかった夕食を温めて食事をして、二人で一緒に後片付けをした。
昨夜入れたお茶の後片付けを、彼女にだけ任せるのはやはり忍びなかったのだ。入れすぎたお茶っ葉のポットを開けて、ノルディは笑っていた。
「苦かっただろう?」と彼が聞くと、「いいえ」と言ってくれた。
妻の入れるいい香りのお茶を飲み、甘さのきつい実家からの大きなクーヘンを口に押し込み。他愛ない話でノルディが笑う。
元通りになった妻の姿こそが、ライマーにとって何よりのご馳走になったのだった。
【コウモリ大佐と暗闇の妻蜂 終】
帰りたくないと言っていたニーナだったが、ノルディがずっと泣いているのを見てどんどん気勢を失っていった。
自分より年上のノルディが、こんなに泣くほど怖い場面だったのだと、ようやくにして理解し始めたようだ。どんなライマーの説教よりも、それが一番こたえたのだろう。しょんぼりと肩を落として、これまた目を真っ赤に泣き腫らした母親に抱きしめられた後、二発ぶたれても一緒に帰って行った。
ひっくと食堂の椅子に座ったままのノルディは、まだ少ししゃくりあげている。何回もライマーはその顔を拭いてやり、不慣れながらお湯をわかして温かいお茶を入れた。明日の朝、ノルディに片付けさせるのが申し訳ない有様だったが、いまはまだそれを詫びる余裕はライマーにはない。
ご飯を食べるどころではないが、おなかがすいているわけでもない。ノルディの涙はもうある程度は止まっているが、身体に力が入ってはおらずそこから動けそうになかった。
「ノル、寝室に行こう、ね?」
そんな彼女の隣の椅子に座って、顔を覗き込むように告げる。力なくこくんと頷くノルディに手を回し、向かい合うように逆向きに抱き上げる。危なくないようにお尻を腕で持ち上げると、ノルディの方が高い目の位置になる。狭い階段を上るには、これが一番ちょうどよい形だった。彼女が身体の全てを預けてくれるのを感じ、ライマーはその現実的な重みに安堵する。
ああ、本当に何事もなくてよかった、と。
「ライマー……」
「うん、いるよノル」
危ないので手燭を持たずに暗い階段を上っていると、それが怖いのか名前を呼ばれる。だから背中に回した手でぽんぽんと軽く叩いて安心させる。
「あなた」でもなく「ライマー」と呼んで、他の誰でもなく自分を頼ってくれる妻をいじらしく思わないはずがない。可愛らしく思わないはずがない。
「明日は休みを取るからね、一緒にいるから大丈夫だよ」
そのまま二階の寝室へ入る。やはり真っ暗だが、ライマーは気にせずすたすたと歩く。彼女を寝台に座らせ、扉を閉めに戻ろうとしたが、その身体がぐんっと引き戻された。振り返ると、ノルディに腕を掴まれていた。
ま、いっかとライマーはあっさり扉を閉めに行くことをやめた。この家に住んでいるのは、二人きり。寝室の扉が開いていることくらい、何の問題もない。
「いるよ、ノル。可愛い私のノル……今日は妹を助けてくれてありがとう。ノルが見つけてくれなきゃ、どうなってたか分からないよ」
ライマーは座っている彼女の頬に両手をあて、おでこをくっつけてぐりぐりとすりつける。
「私……夢中で……どうしたらいいか分からなくて」
思い出したのか、また泣きそうな声になっていく妻に、ノル、ノルと何度も呼びかけて自分の方に意識を向けさせる。
「大丈夫、よくやったよ。ありがとう。愛してるよノル……私のノル。泣くくらいなら私をぶっておくれ。どうして基地にいなかったのか、どうして近道をしたのかとぶっておくれ」
ちゅちゅと、顔のあちこちにキスをしながらライマーは彼女を泣き止ませようと必死になった。
「早く帰ればそれだけ早くノルの顔が見られると、近道しながらもスキップしていた私をぶっておくれ」と言った時、「まあ」と目の前からようやく漏れる泣き笑い。
「今度から、大通りを必ず走って帰ってくるよ。もう絶対すれ違ったりしないから安心して。スキップもやめるから」
ノルに少し笑いが戻ると、ライマーも嬉しくなる。更に調子に乗って言葉を続けると、「もう……」と小さく胸をぶたれた。ますます嬉しくなる。
少しノルディの身体に体温が戻ってきたところで、真っ暗な中でようやく唇を合わせる。舌を絡めると、おずおずとノルディがそれに応える。
「ん……ん……」と苦しげになった妻の声に唇を離した。
「あー……疲れてるよね、ノル」
こんな日にも、健康的な自分の身体は可愛い妻に反応してしまう。ここは甲斐性のある男として、優しくだっこで眠るのがベストだと分かっていても、ライマーは往生際が悪かった。こんなことでは、ひどい男だとノルディに思われてしまうだろうと、彼が泣く泣くあきらめようとした時。
ノルディが、「疲れて……ません」と、熱っぽい声で答えるではないか。「へ?」と、これにはさすがのトット大佐も、間抜けな声を出してしまった。
「疲れてません……ライマー……手を離さないで」
ぎゅっと腕を握られ、ライマーは一瞬ぽかんとした後、自分の中で大きな水音を聞いた。
ドドドドドドドドと、次第に大きくなるその音が自分の心臓の音だと気づいたのは──強くノルディを寝台に押し倒して抱きしめた後のことだった。
翌日、元気になったノルディと休みを取ったライマーは、大通りの二階に住む老婆へお礼の料理を届けに行く。その際、根掘り葉掘り聞かれたが、妹が家を飛び出して探しに出たと答えたところ、予想よりたいしたことのない内容に残念そうに納得したようだった。
全てを説明すれば、老婆の好奇心は満足したかもしれないが、もはやそれは語られるべきことではなかった。
それよりライマーには、大事な仕事がひとつ増えた。犯罪組織のかどわかしの実態解明である。ぐうの音も出ないほど、絞り上げてやるつもりだった。
その日の夕方前、実家から義母が娘とともに詫びに来た。家族なのだから気にしなくていいと言ったものの、相変わらずの義母の押しの強さが苦手なライマーは、母娘で手作りしたというドライフルーツの入った巨大なクーヘンを押し付けられる。
どうやら今日の夕食は、このクーヘンが主食になるようだ。
そんなクーヘンを真ん中に載せた食卓を挟んで、ライマーは妻と二人で座る。今日のお茶は、勿論ノルディが入れてくれた。
今朝は、昨夜食べられなかった夕食を温めて食事をして、二人で一緒に後片付けをした。
昨夜入れたお茶の後片付けを、彼女にだけ任せるのはやはり忍びなかったのだ。入れすぎたお茶っ葉のポットを開けて、ノルディは笑っていた。
「苦かっただろう?」と彼が聞くと、「いいえ」と言ってくれた。
妻の入れるいい香りのお茶を飲み、甘さのきつい実家からの大きなクーヘンを口に押し込み。他愛ない話でノルディが笑う。
元通りになった妻の姿こそが、ライマーにとって何よりのご馳走になったのだった。
【コウモリ大佐と暗闇の妻蜂 終】