ソバカス隊長と暗闇の蜜蜂
ライマー=トット中佐は、ある女性を探していた。
「巡礼団にいた、一般市民のビーネという名の若い女性」と言えば、すぐに分かるとタカをくくっていた。
だが、そうではなかった。蜂(ビーネ)という女性は、名簿には載ってなかったのである。そうなると、ライマーはすっかり困惑してしまった。
どうして、彼女が嘘の名を騙ったのか──何かやんごとない理由でもあるのかと考え込んだ。
考えても、結局理由は分からなかった。ただ、二つの手がかりが残されているだけ。
ひとつは、門番を通じて返された緑のマント。佐官の証の色であるそれは、確かに彼が巡礼団の護衛中に、一般巡礼の女性に貸したものである。
馬小屋の隅にうずくまる小さな輪郭を、彼は思い出した。そう言えば、あの時の声はビーネと同じものではなかったか、と。
即座に門番を捕まえて特徴を聞き出すと、蜂蜜色の髪の若い女性だと言う。若いじゃ分からん、いくつくらいだと更に聞くと、「16か17くらいですかねえ」と答えた。
次にライマーは、彼女に返しそびれた皮袋が、普通のものではないことに目をつけた。手触りはとても乾いているし、皮に小さな灰色のまだらが出ているのも特徴的だ。
軍の連中に聞いても答えは出なかったため、昔の先生のツテで高名な学者に確認してもらうと、「珍しいヨーク山羊の皮」だという。更に聞けば、その山羊の皮を使うのは、ある村の人間だけだと言うではないか。
是非、これを譲って欲しいという学者の元を強引に去り、そこから、ライマーは、本腰を入れて彼女を探し始めた。
先の流行病で亡くなった民衆の、死亡名簿を端から全部調べたのである。
王都の戸籍制度は、しっかりしている。そこには、名前と現住所、そして、他の地域から来た者の場合は、出身地が書かれているのだ。
巡礼団には、戸籍に登録されていないような人間は、参加することは出来ない。だからこそ、死亡者の中に彼女の身内がいると思ったのである。
何千人という死者の名を前に、延々とライマーはページをめくり続け──ついに発見した。
ヨーク山羊を使う村出身の、神殿で働いていた女性。年齢的にも、あの子の母親と考えるとちょうどいいものだった。
すぐに神殿に問い合わせると、肩をすかすほどあっさりと、「ビーネと呼ばれる16歳の娘」が働いていることが分かったのだ。
それはもう、ライマーは浮かれた。
おそらく、人生で一番浮かれていたのではないだろうか。
暗闇の中で、疲れた人々の心を助けた優しい女性を、苦労して苦労してやっと見つけたのだから。
黄金色をした、不思議な蜂蜜の石。
巡礼の旅に同行した部下からは、「あれは何だったのですか」「神の味がしました」と、いまだにライマーに問い合わせがある。
おそらく、いま食べたらただの蜂蜜の味なのだと、彼は思った。しかし、あの過酷な環境では、本当に神から与えられたと勘違いしたくなるほど、命のつながる幸福の味がしたのだ。
あれがなければ、肩を落とした洞窟の人々は、もう一度顔を上げてはくれなかっただろう。
あの作戦を、ライマーは最善だと思って立てた。
鉱山育ちの彼は、この国の坑道がどのように山の中を這い回っているかを調べ、記憶していた。足の達者なものであれば、一日と少しで越えられる距離だと思っていたので、巡礼帰りに襲撃された時の抜け道として選択したのだ。
しかし、女性や老人には予想以上に辛い道だった。
暗闇が、彼らの心を怯えさせ、弱くするから尚のこと歩みが遅くなる。
ライマーの思考では足りなかった心配りの部分が、ひどく露呈した場面でもあった。
その足りない部分を──『彼女』が埋めてくれた。
それは、感謝であり、感動であり、歓喜だった。
ライマーは、暗闇の中で蜂蜜の塊を出した少女を、抱きしめて踊り出したいほどの恍惚に包まれていたのだ。
軽薄な男であったならば、すぐ様に彼女の指を取り上げて、その指先に敬愛の接吻をしたことだろう。
しかし、彼は女性関係には、とことん愚鈍な男だった。
ちょっといいなと思う子は、気がつくと他の男にかっさらわれているような、やっぱり冴えない男だったのだ。
まあ、縁があれば、そのうち。
そんなことを考えて、忙しい日々を送っていたおかげで、27歳にもなって嫁ももらえず、金を使う暇もなく貯まっていくばかりのしょっぱい生活だった。
そんな男が、ついに女性に歓喜する日が訪れたのだ。
今回の褒章として大佐の称号を与えられるという、しょうもない話の打ち合わせも放り出して、ライマーは神殿へと駆けつけた。
神官に居場所を聞き、彼は裏庭へと出る。
そこには──蜜蜂がいた。
柔らかそうな蜂蜜色の髪の娘が、一生懸命蜂蜜を、いや、落ち葉を集めていたのだ。
落ち葉はかき寄せられ、小山を作り上げる。それを一度満足そうに、彼女はやり遂げた目で見つめた後、こちらに向かって歩き出す。
彼女に見とれていたライマーは、はっと我に返って歩き出した。
「やあ、こんにちは。初めましてじゃなくて、いいよね?」
「隊長……さん?」
黒い瞳が、きょとんと瞬いた。
ああ、ああ。
再び、ライマーの心を歓喜が襲う。
暗闇で聞いた、彼女の声に間違いなかったからだ。ついに、蝙蝠(フレーダー)は蜂(ビーネ)に追いついたのである。
それは、間違いなく──恋だった。
※
「はぁ……」
「トット中佐、気持ち悪いぞ」
膨大な書類を前にため息をついたライマーは、近づいてきた兄弟子──アダー上級大佐に、顔を顰められる。四十の大台に乗って、可愛い娘に「おじさんになったね」と言われたのが、最近の不幸だという。
快活な男なので、顔を顰めると言ってもそれは、ポーズに近い。彼のため息の原因を探りに来たのだろう。
「はぁ……気持ち悪くていいですよ」
つまらない書類に目を通し、ガリガリとペンを走らせながらサインをする。
見る-サイン-ため息-見る-サイン-ため息と、作業の中のセットにため息が含まれるのだから、同じ領域にいる人間には、確かに気持ちが悪いことだろう。
「何だ? 探してた蜜蜂(ビーネ)ちゃんにでも、逃げられたか? 蝙蝠(フレーダー)ともあろうものが、情けないな」
「違いますよ。ノ……ビーネなら捕まえました。つい焦っていろいろ強引に進めたので、彼女が戸惑ってしまったようで……」
「ほう、ついにお前も恋の悩みか! 何の失敗をやらかした!?」
アダー上級大佐は、目をランランと輝かせた。この恋に愚鈍な弟弟子(おとうとでし)が、失敗をする姿というのが楽しくてしょうがないようだ。
「いえ……戸惑う姿が余りに可愛らしくて、思い出すとついため息が……何でしょうね、この症状」
ガリガリと自分の名を書く。こういう時だけは、短い名前である自分の名を好きになる。
お偉い貴族の方々の長ったらしい名前を思い出し、ライマーは首を竦めた。
「首を竦めたいのは、こっちの方だ、トット中佐。お前……ほんと気持ち悪いな。軍にいて、どうしてそんな素直なのか、不思議でたまらんわ」
「ありがとうございます。意地を張っていいほど、面倒な人生を歩んできましたが、意地を張るともっと面倒な人生になると思ってやめたんですよ。多分、いい加減な父親のおかげです」
巡礼団の任務で怪我をした兵の見舞いに関する書類で、彼は一度ペンを止めた。詳細をチェックしてサインしようと、一旦机の脇に置き、文鎮を載せる。
「やれやれ。口だけは達者なんだから、その調子で蜜蜂(ビーネ)ちゃんも口説き落としてくりゃいいだろうに……ところで、巡礼団にいた豪商の嫁が、幻の甘露とやらを探しに軍に乗り込んできたぞ。兵士たちも、似たようなことを言ってたが、何か知らないか?」
ふざけた話をしに来ただけかと思いきや、ちゃんと本題もあったようだ。
「……ただの蜂蜜ですよ。空腹のせいで、神の食べ物にでも感じたんでしょ」
ライマーは、静かに──すっとぼけたのだった。
「巡礼団にいた、一般市民のビーネという名の若い女性」と言えば、すぐに分かるとタカをくくっていた。
だが、そうではなかった。蜂(ビーネ)という女性は、名簿には載ってなかったのである。そうなると、ライマーはすっかり困惑してしまった。
どうして、彼女が嘘の名を騙ったのか──何かやんごとない理由でもあるのかと考え込んだ。
考えても、結局理由は分からなかった。ただ、二つの手がかりが残されているだけ。
ひとつは、門番を通じて返された緑のマント。佐官の証の色であるそれは、確かに彼が巡礼団の護衛中に、一般巡礼の女性に貸したものである。
馬小屋の隅にうずくまる小さな輪郭を、彼は思い出した。そう言えば、あの時の声はビーネと同じものではなかったか、と。
即座に門番を捕まえて特徴を聞き出すと、蜂蜜色の髪の若い女性だと言う。若いじゃ分からん、いくつくらいだと更に聞くと、「16か17くらいですかねえ」と答えた。
次にライマーは、彼女に返しそびれた皮袋が、普通のものではないことに目をつけた。手触りはとても乾いているし、皮に小さな灰色のまだらが出ているのも特徴的だ。
軍の連中に聞いても答えは出なかったため、昔の先生のツテで高名な学者に確認してもらうと、「珍しいヨーク山羊の皮」だという。更に聞けば、その山羊の皮を使うのは、ある村の人間だけだと言うではないか。
是非、これを譲って欲しいという学者の元を強引に去り、そこから、ライマーは、本腰を入れて彼女を探し始めた。
先の流行病で亡くなった民衆の、死亡名簿を端から全部調べたのである。
王都の戸籍制度は、しっかりしている。そこには、名前と現住所、そして、他の地域から来た者の場合は、出身地が書かれているのだ。
巡礼団には、戸籍に登録されていないような人間は、参加することは出来ない。だからこそ、死亡者の中に彼女の身内がいると思ったのである。
何千人という死者の名を前に、延々とライマーはページをめくり続け──ついに発見した。
ヨーク山羊を使う村出身の、神殿で働いていた女性。年齢的にも、あの子の母親と考えるとちょうどいいものだった。
すぐに神殿に問い合わせると、肩をすかすほどあっさりと、「ビーネと呼ばれる16歳の娘」が働いていることが分かったのだ。
それはもう、ライマーは浮かれた。
おそらく、人生で一番浮かれていたのではないだろうか。
暗闇の中で、疲れた人々の心を助けた優しい女性を、苦労して苦労してやっと見つけたのだから。
黄金色をした、不思議な蜂蜜の石。
巡礼の旅に同行した部下からは、「あれは何だったのですか」「神の味がしました」と、いまだにライマーに問い合わせがある。
おそらく、いま食べたらただの蜂蜜の味なのだと、彼は思った。しかし、あの過酷な環境では、本当に神から与えられたと勘違いしたくなるほど、命のつながる幸福の味がしたのだ。
あれがなければ、肩を落とした洞窟の人々は、もう一度顔を上げてはくれなかっただろう。
あの作戦を、ライマーは最善だと思って立てた。
鉱山育ちの彼は、この国の坑道がどのように山の中を這い回っているかを調べ、記憶していた。足の達者なものであれば、一日と少しで越えられる距離だと思っていたので、巡礼帰りに襲撃された時の抜け道として選択したのだ。
しかし、女性や老人には予想以上に辛い道だった。
暗闇が、彼らの心を怯えさせ、弱くするから尚のこと歩みが遅くなる。
ライマーの思考では足りなかった心配りの部分が、ひどく露呈した場面でもあった。
その足りない部分を──『彼女』が埋めてくれた。
それは、感謝であり、感動であり、歓喜だった。
ライマーは、暗闇の中で蜂蜜の塊を出した少女を、抱きしめて踊り出したいほどの恍惚に包まれていたのだ。
軽薄な男であったならば、すぐ様に彼女の指を取り上げて、その指先に敬愛の接吻をしたことだろう。
しかし、彼は女性関係には、とことん愚鈍な男だった。
ちょっといいなと思う子は、気がつくと他の男にかっさらわれているような、やっぱり冴えない男だったのだ。
まあ、縁があれば、そのうち。
そんなことを考えて、忙しい日々を送っていたおかげで、27歳にもなって嫁ももらえず、金を使う暇もなく貯まっていくばかりのしょっぱい生活だった。
そんな男が、ついに女性に歓喜する日が訪れたのだ。
今回の褒章として大佐の称号を与えられるという、しょうもない話の打ち合わせも放り出して、ライマーは神殿へと駆けつけた。
神官に居場所を聞き、彼は裏庭へと出る。
そこには──蜜蜂がいた。
柔らかそうな蜂蜜色の髪の娘が、一生懸命蜂蜜を、いや、落ち葉を集めていたのだ。
落ち葉はかき寄せられ、小山を作り上げる。それを一度満足そうに、彼女はやり遂げた目で見つめた後、こちらに向かって歩き出す。
彼女に見とれていたライマーは、はっと我に返って歩き出した。
「やあ、こんにちは。初めましてじゃなくて、いいよね?」
「隊長……さん?」
黒い瞳が、きょとんと瞬いた。
ああ、ああ。
再び、ライマーの心を歓喜が襲う。
暗闇で聞いた、彼女の声に間違いなかったからだ。ついに、蝙蝠(フレーダー)は蜂(ビーネ)に追いついたのである。
それは、間違いなく──恋だった。
※
「はぁ……」
「トット中佐、気持ち悪いぞ」
膨大な書類を前にため息をついたライマーは、近づいてきた兄弟子──アダー上級大佐に、顔を顰められる。四十の大台に乗って、可愛い娘に「おじさんになったね」と言われたのが、最近の不幸だという。
快活な男なので、顔を顰めると言ってもそれは、ポーズに近い。彼のため息の原因を探りに来たのだろう。
「はぁ……気持ち悪くていいですよ」
つまらない書類に目を通し、ガリガリとペンを走らせながらサインをする。
見る-サイン-ため息-見る-サイン-ため息と、作業の中のセットにため息が含まれるのだから、同じ領域にいる人間には、確かに気持ちが悪いことだろう。
「何だ? 探してた蜜蜂(ビーネ)ちゃんにでも、逃げられたか? 蝙蝠(フレーダー)ともあろうものが、情けないな」
「違いますよ。ノ……ビーネなら捕まえました。つい焦っていろいろ強引に進めたので、彼女が戸惑ってしまったようで……」
「ほう、ついにお前も恋の悩みか! 何の失敗をやらかした!?」
アダー上級大佐は、目をランランと輝かせた。この恋に愚鈍な弟弟子(おとうとでし)が、失敗をする姿というのが楽しくてしょうがないようだ。
「いえ……戸惑う姿が余りに可愛らしくて、思い出すとついため息が……何でしょうね、この症状」
ガリガリと自分の名を書く。こういう時だけは、短い名前である自分の名を好きになる。
お偉い貴族の方々の長ったらしい名前を思い出し、ライマーは首を竦めた。
「首を竦めたいのは、こっちの方だ、トット中佐。お前……ほんと気持ち悪いな。軍にいて、どうしてそんな素直なのか、不思議でたまらんわ」
「ありがとうございます。意地を張っていいほど、面倒な人生を歩んできましたが、意地を張るともっと面倒な人生になると思ってやめたんですよ。多分、いい加減な父親のおかげです」
巡礼団の任務で怪我をした兵の見舞いに関する書類で、彼は一度ペンを止めた。詳細をチェックしてサインしようと、一旦机の脇に置き、文鎮を載せる。
「やれやれ。口だけは達者なんだから、その調子で蜜蜂(ビーネ)ちゃんも口説き落としてくりゃいいだろうに……ところで、巡礼団にいた豪商の嫁が、幻の甘露とやらを探しに軍に乗り込んできたぞ。兵士たちも、似たようなことを言ってたが、何か知らないか?」
ふざけた話をしに来ただけかと思いきや、ちゃんと本題もあったようだ。
「……ただの蜂蜜ですよ。空腹のせいで、神の食べ物にでも感じたんでしょ」
ライマーは、静かに──すっとぼけたのだった。